第66話 同じ言葉の戦争
カフェへ戻った僕たちは、もう一度ノートパソコンを開いた。
「何にされますか」
美咲さんにそう聞かれて、僕は少し迷ってからカフェモカを選んだ。
「アイスアメリカーノではないんですか」
「今日は、甘いものをもう少し口にしたい気分です」
「では、私も同じものにします」
コーヒーを一口飲んでから、僕はノートパソコンの画面を確認した。
美咲さんも僕の隣に座り、画面を一緒に見つめた。
彼女が指で画面を示した。
「これは、多富洞へ向かう途中で書いたもののようですね。でも、まさか歩いて行ったんですか」
「当時の韓国軍には、車両がかなり不足していたはずです」
「ものすごく大変ですね」
「そうですね。だから軍人は行軍という訓練を別に受けるわけですが……当時の祖父や新兵たちにとっては、経験したことのない苦しさだったと思います」
僕は訓練所のころの行軍を思い出した。
足の裏に水ぶくれができ、慣れない軍靴で足首の皮が擦りむけた。
「僕が経験した行軍は、終われば休むことができました。けれど、祖父が経験した行軍の終わりにあったのは、前線だったんです」
「そうですね」
僕はまた手帳の内容を確認した。
「道に人が多い。
兵士もいる。避難民もいる。
子どもの泣き声が聞こえる。」
「子どもの泣き声……」
美咲さんがつぶやいた。
彼女にとって、それはほかの何よりも胸に響く文のようだった。
「次の文を見ましょう」
僕は画面を進めた。
今回も、避難民の描写があった。
「人々が道端に座っていた。
包みを抱えていた。
子どもを背負った女もいた。
老人が歩けなかった。
誰かが水をくれと言った。」
文は短く、感情は書かれていなかった。
けれど、その短い文だけでも、道の上の風景が目の前に浮かぶようだった。
「避難民のあいだを歩いていく兵士たち。おそらく祖父が多富洞へ向かいながら見たものを書き残したのだと思います」
僕はまた画面を進めた。
「先の部隊が避難民と入り混じっていた。
避難民を調べているように見えた。
怯えた子どもたちが泣いていた。
私たちはその光景を見ながら通り過ぎた。」
美咲さんが、息を呑んだようだった。
「避難民を……調べていたということですか」
「そうだと思います」
僕はゆっくりうなずいた。
「どうして避難民を、そこまで確認しなければならなかったのでしょう」
美咲さんが尋ねた。
僕はすぐには答えなかった。
どう言えば、美咲さんに朝鮮戦争の特殊さを説明できるのか、少し考えた。
「前にも言いましたけど、これは同じ言葉を使う人間同士の戦争です」
「同じ言葉……」
「はい。軍服を着ていなければ、誰が避難民で、誰が人民軍なのか、すぐにはわかりません」
「わからない……」
「人民軍が避難民に偽装して攻撃してきたら、そのまま被害を受けたはずです」
美咲さんは何も言わずに画面を見た。
「そういうことが、実際にあったんですか」
「戦争の初期には、そうした偽装や浸透にやられたという記録があります。避難民の列に紛れたり、民間人の姿をしたり、時には韓国軍に偽装するような形で近づいたりするわけです」
僕は少し考えてから、もう少し説明を続けた。
「現代の戦争でも、敵味方の識別を誤れば大きな被害が出ます。けれど当時の朝鮮戦争は、それ以上に難しい状況だったはずです。同じ言葉を使い、同じような服を着て、避難民と兵士が同じ道の上に入り混じっていたのですから」
「そうですね」
「しかも韓国軍は、奇襲を受けて防御する側でした。いえ、ずっと押され続けている側だったので、なおさら切迫していたはずです」
「そうですね」
「でも、問題はそこで終わりません」
「終わらないんですか」
「人民軍の偽装が実際にあったからこそ、今度は罪のない民間人が疑われることになります。本当に生きるために逃げていた人たちまで、敵だと誤認される可能性があったんです。そして、そうした誤認によって命を落とした民間人もいたとされています」
美咲さんは、唇を少し結んだ。
そして、小さく言った。
「ひどいですね」
「僕もそう思います」
僕はゆっくり言った。
「ただ、その場にいた兵士の立場を考えると、単純には言えません」
美咲さんが僕を見た。
「判断を少しでも間違えれば、自分が死ぬかもしれません。隣にいる人が死ぬかもしれません」
「……」
「その判断を、静かな部屋の中でするわけではありません。いつ攻撃されて死ぬかわからない場所で、しなければならないんです」
僕は言葉を止めて、もう一度考えを整理した。
少しして、また言った。
「ひどいことだったのは確かです。でも、その場にいたら、自分ならどうしただろうか。そう考えると……簡単には判断できません」
美咲さんは何も言わなかった。
「前にも言ったように、朝鮮戦争は同じ言葉を使う人間同士の戦争です。だから、別の国と別の国が正面からぶつかる戦争とは、見え方そのものが違っていたのだと思います」
美咲さんが静かに息を吐いた。
「たしかに……違う言葉を使う人たち同士の戦争とは、まったく違う様相だったのでしょうね」
「はい」
僕はうなずいた。
僕は次の記録へ進んだ。
「多富洞が近いと言われた。
山が見えた。
新しく来た兵士たちは黙っていた。」
僕は次の行を確認した。
「新しく来た兵士たちが、私を見た。
私は何を言えばいいのかわからなかった。
私もよくわからない。
けれど、わからないとは言えなかった。
私は一等兵だ。
この兵士たちを率いなければならなかった。」
僕はその文から目を離せなかった。
「お祖父さまも、怖かったでしょうね」
美咲さんが言った。
「はい」
僕は小さく答えた。
「でも、それを言うことはできなかったのでしょう」
僕は最後に残っていた短い記録を開いた。
その文は、とても短かった。
「多富洞に着いた。」
そのあとには、何も書かれていなかった。
「おそらく、到着したあとは記録する余裕がなかったのだと思います」
次のページをめくって確認しなければならなかった。
けれど、すぐには手が動かなかった。
「ここから……」
美咲さんが慎重に言った。
「本格的に始まるんですね」
「はい」
僕はうなずいた。
「多富洞の戦いです」
その場所で、洛東江防衛線の行方を左右する戦いが始まろうとしていた。




