第65話 違う世界のあいだ
僕は、さっき整理した資料を確認した。
朝鮮銀行券。満洲中央銀行。戦争経済。そして通貨価値の暴落。
それが、その時代を生きた多くの人の人生を崩してしまった可能性があった。
「もし……」
僕はゆっくり口を開いた。
「祖父がそれまでに集めた財産を、ほとんど失っていたとしたら、何を考えたでしょうか」
「よくわかりません」
少し考えてから、美咲さんがまた言葉を続けた。
「あまりに突然のことなら……何も考えられなかったような気がします」
「そうかもしれません。でも、少し時間が経てば、別のことを考えたかもしれません」
「別のこと、ですか」
「多額のお金を失った人は、その分を取り戻そうとして、以前なら考えなかったような思い切ったことをすることがあります」
僕の頭の中に、昔聞いた、投資の失敗で多くのお金を失った人たちの話が浮かんだ。
どうしてそんな無理なことをしたのかと思うような人たちも、以前に失ったお金を早く取り戻さなければならないという考えに取りつかれていた場合が多かった。
「危険でも、多くのお金を稼げる仕事。そういうものに手を出そうと考えた可能性があります。もう一度、最初から少しずつ稼ぐという考えには、なかなかなれなかったでしょうから」
「そういうことも、ありそうですね」
僕はファイル一覧をもう一度開いた。
以前整理しておいたメモが、画面に表示された。
その中のひとつに、見覚えのある名前があった。
朴相吉。
僕はその名前が書かれた部分を、指先で示した。
「この人です」
美咲さんが画面をのぞき込んだ。
「朴相吉……」
すでに、これまで確認した資料だけでも、祖父と朴相吉がかなり近い事業上の関係にあったことはわかっていた。
「彼が提案した事業は、かなり危険で、けれど多くのお金を稼げる仕事だった可能性が高いと思います。祖父が失った分をすべて取り戻すか、あるいはそれ以上を稼げるような仕事です」
美咲さんも、納得したようにうなずいた。
「前は慎重な推測にすぎませんでしたけど、今の状況を見ると、ある程度強い推測と言えそうですね」
「祖父も悩んだでしょうが、実際には選択肢がなかったのかもしれません」
「極端な状況に追い込まれていたのかもしれない、ということですね」
「はい。そういう状況なら、朴相吉の提案を断ることは難しかったでしょう。そして……」
僕は、ひとつの事実を思い出した。
そして急いで、前に見た画面を確認した。
「祖父は少なくとも一九四八年までは、まだ佐伯という名前を使っていたようです。ここの記録を見てもそうです。ただ、はっきりしているのは、一九四九年以降、少なくとも一九五〇年の初めには、別の名前を使っていた可能性が高く見えるということです」
僕はそう言ってから、メモ用紙を取り出し、一九四八年と書いた。
「韓国政府が成立した時期です」
「政府の成立、ですか」
「はい。韓国政府が成立し、行政の仕組みが少しずつ整っていった時期です。日本人なのか韓国人なのか、書類上あいまいな状態のままでいることは、だんだん難しくなっていったのかもしれません。逆に、韓国人として動こうとしたのなら、その時期が最後の機会のように見えた可能性もあります」
僕は考えを整理してから、もう一度言った。
「もともとは、数年だけ名前を変えて過ごし、お金を稼いだあとで日本へ戻るつもりだったのかもしれません。ですが……」
「戦争が起きたんですね。そして、そのまま韓国軍に連れていかれることになった……」
「はい」
「それなら、朴相吉という人のせいで、結局こういうことになったんじゃないですか」
僕は画面の中の名前を見つめた。
朴相吉。
いったいこの人は、何者なのだろう。
僕はファイルをひとつずつ、もう一度見直した。
金額と日付が書かれた領収書。
そこには、十分な説明はどこにもなかった。
「今ある資料だけでは、ここから先へ進むのは難しいです」
「では、どうすればいいのでしょう」
「もう一度、朝鮮戦争の記録に戻るしかなさそうです。祖父が別の名前を使うようになったきっかけを、どこかに書き残してくれていることを願うしかありません」
そのとき、美咲さんが壁に掛かった時計を見た。
まだ正午には少し早い時間だった。
「少し早めに出ませんか」
美咲さんが言った。
「昼食ですか」
「はい。今これ以上見ても、頭に入ってこない気がします」
「それがよさそうです」
僕たちはカフェを出た。
外の空気は少し明るかった。
港のほうへ歩いていくと、海の匂いがかすかに混じってきた。
まだ本格的な昼時になる前だったので、道はそれほど混んでいなかった。
僕たちは港近くの小さな食堂に入った。
美咲さんは鯛の定食を選び、僕も同じものを頼んだ。
「この前食べたものもおいしかったですけど、これもおいしいですね」
「お口に合ってよかったです」
温かいご飯と汁物を食べると、頭の中で絡まっていた言葉が、少し落ち着いていくような気がした。
食事を終えたあと、僕たちは海が見えるほうへ歩いた。
穏やかな波の上で光が細かく砕け、遠くには島々が見えた。
僕はふと、朝、美咲さんから受け取った紙袋のことを思い出した。
「あ」
「どうしました?」
「朝いただいたお菓子です」
僕は鞄から小さな紙袋を取り出した。
黄色い包みが、中に見えていた。
瀬戸田レモンのお菓子。
「宿でいただくと言ったんですけど……ひとつだけ、今食べてもいいですか」
美咲さんが少し笑った。
「もちろんです。差し上げたものですから」
「では、一緒に食べませんか」
「私もですか」
「はい。ひとりで食べるには、少しもったいないです」
美咲さんはしばらく僕を見てから、小さくうなずいた。
「では、ひとつだけいただきます」
僕たちは海の見える場所で、少し立ち止まった。
ベンチがひとつあったが、すでに別の人が座っていた。
だから僕たちは、欄干の近くに立って、包みをひとつずつ開けた。
小さなお菓子から、レモンの香りがした。
強すぎず、ふっと立ち上がるような香りだった。
僕は一口かじった。
甘かった。そしてすぐに、軽い酸味があとから来た。
「おいしいですね」
僕が言うと、美咲さんは安心したように笑った。
「よかったです。瀬戸田レモンなので、酸っぱすぎたらどうしようかと思っていました」
「全然です」
僕はもう一口食べた。
美咲さんも、お菓子を少しかじった。
僕たちはしばらく、何も言わずに海を見ていた。
お菓子は大きくなかったが、短い甘さと酸味が、思ったより長く残った。
そのとき、ふと、祖父の握り飯の記録と、以前コンビニで買って食べた塩むすびを思い出した。
「祖父も、食事をしながら少しは休めたのでしょうか」
僕は瀬戸田レモンのお菓子を持ち上げた。
「当時の祖父にも、これを食べさせてあげられたらよかったのにと思います」
もし朝鮮戦争が起きていなかったなら、祖父はこの場所で、千代子さんと一緒にお菓子を食べていたのかもしれない。
そのとき、美咲さんが口を開いた。
「こういうものを食べていると……少し不思議な気持ちになります」
「何がですか」
「戦場へ向かう話をしていたでしょう。でも今は、海を見ながらお菓子を食べています。まるで、まったく違う世界の話のあいだを行き来しているような気がします」
「そうですね」
美咲さんは海を見つめたまま答えた。
「でも、人はそういうあいだを行き来しながら生きているのかもしれません」
「そのあいだを行き来しながら生きる……そうかもしれません。すべてが別々の世界のように見えても、実際にはひとりの人生の中に一緒にあることもあるんですから」
僕は残っていたお菓子を食べきった。
祖父の人生も、そうだったのだろう。
鞆の浦の写真の中で笑っていた男。
朝鮮銀行券の価値が崩れていく時代を通り過ぎた男。
そして一等兵になり、多富洞へ向かっていた男。
そのすべてが、ひとりの祖父だった。
僕は空になった包みを折り、紙袋の中へ入れた。
美咲さんも、自分の包みを丁寧に折った。
風が少し吹くと、海の光がわずかに揺れた。
「戻りましょうか」
美咲さんが尋ねた。
僕はうなずいた。
「はい」
僕は海から目を離した。
レモンの香りが、まだ口の中に残っていた。
その香りが消えてしまう前に、戦争の記録を確かめたいと思った。
多富洞。
僕は、その名前をもう一度思い出した。




