第64話 戻る方法を失った人
多富洞の戦い。
僕はしばらく、その文字を見つめていた。
美咲さんも、しばらく何も言わなかった。
「もっと危険な場所へ送られた、ということですよね」
「ひとまず、その可能性は高いと思います」
「どうして……ここまでのことになったんでしょう」
僕は美咲さんを見た。
「佐伯さんは、自分が日本人だということを言えなかったのでしょうか。最初は突然連れてこられた人だから難しかったとしても、今なら機会があったのではないでしょうか」
「兵力が足りない状況で、誰かが『私は本当は日本人です』と言ったとして、それをいちいち確認してくれる人がいたでしょうか」
「では……もう遅かったということですか」
「たぶん」
僕はコーヒーカップを指先で少し回した。
コーヒーはもう冷めていた。
「でも、日本語を流暢に話せるとわかれば……」
美咲さんの言葉に、僕は首を横に振った。
「日本語が話せるというだけでは、証明にはならなかったと思います」
「どうしてですか」
「当時の朝鮮の人たちは、子どものころから『国語』という名目で日本語教育を受けていました。祖父の世代なら、日本語をかなり話せる人も少なくなかったはずです」
美咲さんは、唇を少し結んだ。
「では、日本語が上手だということも……日本人だと証明する材料にはなりにくかったんですね」
「はい」
僕は短く答えた。
「むしろ、言い続けていたら、もっと危険だったかもしれません」
美咲さんが僕を見た。
「危険だった、というのは……」
「軍務から逃れるための嘘だと見られた可能性がある、ということです」
僕は少し言葉を止めた。
前に確認した記録の中の一文が浮かんだ。
逃げれば、撃たれるかもしれない。
「すでに前線へ投入された兵士が、ずっと『私はここにいるべき人間ではない』と言い続けたら、聞く側はそれをどう受け取ったでしょうか」
「逃げようとしていると……思ったかもしれませんね」
「はい」
僕はうなずいた。
「祖父も、それがわかっていたのかもしれません」
美咲さんは何も言わなかった。
窓の外を通り過ぎる人の足音が、かすかに聞こえた。
カフェの中では、誰かがカップを置く音がした。
今、こうして僕たちが持っている普通の自由。
けれど当時の祖父にとっては、手の届かないものだった。
「では、佐伯さんには……自分が日本人だと言う機会も、その言葉を聞いてくれる人もなかったのでしょうか」
美咲さんが低く言った。
「そうだったのかもしれません。むしろ、言い方を間違えれば、脱走を狙っている者として監視対象になったかもしれません」
「どうして、そこまでのことに……」
「それは……」
僕は記録のことを思い返した。
「僕たちがまだきちんと確認できていない時系列があります」
「どこのことですか」
「朝鮮戦争が始まる直前、つまりその前の二、三年ほどの記録です」
僕はファイル一覧をもう一度開いた。
「僕たちが見たのは、大まかな短い記録だけです。その間に隠れている意味を探さなければなりません。空白になっている時期に、何か手がかりがあるかもしれません」
僕は美咲さんと一緒に、以前の記録をもう一度見直し始めた。
けれど、やがて美咲さんはお手上げというような表情をして、カフェの椅子に背を預けた。
「わかりません」
「これだけでは、つかみにくいですね」
「いったい、どうして韓国人にならなければならなかったのでしょう。そこまで事業が……難しくなっていたのでしょうか。でも、数年のあいだにお金を貯めていたのなら、たとえ大きな損をしたとしても、ある程度の資産は残っていたはずですよね」
「もしかすると、数年分どころか、一生かけて貯めたお金も、佐伯商会のすべての資産も、なくなっていたのかもしれません」
美咲さんは静かに聞いていた。
それから、慎重に尋ねた。
「終戦後の朝鮮では……それほどお金の価値が大きく変わったんですか」
僕はその質問に、すぐには答えられなかった。
「少し待ってください」
僕は検索窓を開いた。
「以前、それに関係する文章を見たことがあります」
美咲さんが画面のほうへ、少し身を寄せた。
僕は記憶にあった資料を、ゆっくり検索した。
とくに僕が重点的に確認したのは、朝鮮銀行券だった。
しばらくして、検索結果が現れた。
「これ、聞いたことがありますか」
美咲さんは、ゆっくり読んだ。
「朝鮮銀行券……朝鮮で使われていたお金ですか」
「はい。日本統治期の朝鮮で発行されていた通貨です」
僕は検索結果を少し下へ送った。
朝鮮銀行と満洲中央銀行についての内容が出てきた。
僕は画面を見ながら言った。
「解放直後の朝鮮経済がかなり混乱していた、という話です。前は、物価が上がったという程度で流していましたが、今はもう一度整理してみる必要がありそうです」
「はい」
「お金というのは結局、それで何を買えるのかという問題ですから。紙幣が手元に残っていても、その紙幣の価値が崩れてしまえば、実質的には失ったのと変わりません」
僕は少し言葉を止めた。
コーヒーカップは、もうほとんど空だった。
「実は以前、この部分に少し興味があって調べたことがあります。正確には、朝鮮銀行券が満洲でどんな役割をしていたのか、ということです」
美咲さんが、不思議そうに僕を見た。
「朝鮮のお金が、満洲でも使われていたんですか」
「はい」
僕は画面をゆっくり下へ送った。
「当時の朝鮮は、日本帝国の経済圏の中にありました。日本本土には円があり、朝鮮には朝鮮銀行券があり、満洲にはまた満洲側の通貨がありました」
「では、それぞれ違うお金だったんですか」
「形式的にはそうです。ですが、完全に別々に動いていたわけではありません」
僕は朝鮮銀行という言葉を指した。
「朝鮮銀行は、朝鮮の中だけで動いていた銀行ではありませんでした。満洲側にも深く関わっていましたし、朝鮮銀行券も満洲で重要な役割をしていたようです」
美咲さんは静かに目を伏せた。
「どうして朝鮮銀行券が満洲で必要だったのでしょう」
「満洲は、いろいろな勢力が行き来していた場所でしたし、通貨も複雑でした。そういう場所では、信用できるお金が必要だったのだと思います。その過程で、朝鮮銀行券が一種の安定した通貨のように使われていたのかもしれません」
僕はもう一度、検索窓にいくつかの言葉を入れた。
朝鮮銀行 満洲中央銀行 資金融通。
検索結果が変わった。
満洲国が成立したあと、満洲中央銀行が登場したという説明が見えた。
僕はその内容をゆっくり読んだ。
「満洲国が成立したあとには、満洲中央銀行が設立されました。満洲のさまざまな通貨と金融を整理するための中央銀行だったようです」
「では、朝鮮銀行と満洲中央銀行は、つながっていたんですか」
「はい。少なくとも資料を見るかぎり、二つの銀行のあいだには資金が行き来し、通貨と決済を支える構造があったようです」
僕は少し考えてから、言葉を選んだ。
「現代風にたとえるなら、通貨スワップを思わせる部分もあります」
「通貨スワップ、ですか」
美咲さんが、聞き慣れない言葉を繰り返した。
「正確に同じ制度だったと言うことはできません。今の通貨スワップと当時の金融構造は違いますから。ただ、互いの通貨と資金の流れを支えるという点では、似ていると見ることもできる部分があります」
僕は画面に浮かんでいる言葉を、もう一度見た。
朝鮮銀行券と、満洲国のお金。
「資料だけを見ると、一九三〇年代の朝鮮経済はかなり成長したように見えます」
「成長……ですか」
「はい。満洲事変以後、日本は満洲と朝鮮をひとつの戦争経済の中に、より強く結びつけていったようです。朝鮮でも工業生産が増え、お金と物資が多く動きました。数字だけを見れば、経済が大きくなったように見えるかもしれません」
美咲さんが、少し考えるように言った。
「では、そのころは好景気だったんですか」
僕はすぐには答えなかった。
その言葉が、あまりにも簡単に聞こえたからだ。
好景気。
けれど、誰にとっての好景気だったのか、何のための好景気だったのかを問わなければならない言葉だった。
「表向きには、そう見えたかもしれません」
僕はゆっくり言った。
「でも、それを朝鮮の人たちが自分たちの力で安定した経済を作ったものだと見るのは難しいと思います」
「どうしてですか」
「日本本土と満洲をつなぐ戦争経済の中で、朝鮮が資金と物資の通り道になっていた面が大きかったはずだからです」
美咲さんは何も言わずに聞いていた。
僕は画面を少し下へ送った。
「お金が多く回り、工場が増え、生産量が増えれば、数字の上では成長のように見えます。ですが、その成長が戦争のための構造に結びつけられているなら、その構造が崩れた瞬間、衝撃も一緒に戻ってきます」
「その衝撃を、朝鮮の人たちが背負うことになったんですか」
「はい。結果的には、そう見ることもできると思います」
僕は画面を見つめた。
「朝鮮のお金は満洲へつながり、満洲の開発と戦争経済はまた朝鮮へつながっていました。お金が大きく動いているあいだは、成長のように見えたはずです。けれど、そのつながりが切れれば、そのお金は一瞬で信用できないものになる可能性もありました」
美咲さんの表情が少し固くなった。
「では、戦争が終わったとき……」
「はい」
僕は小さくうなずいた。
「そのつながりが切れたのだと思います。そうなると、それまで積み重なっていた衝撃が、一気に朝鮮経済へ戻ってきた可能性があります」
「では、佐伯さんが何年もかけて稼いだお金も……」
彼女が最後まで言わなくても、何を意味しているのかはわかった。
「はい」
僕は答えた。
「祖父が財布や箱の中に紙幣を持っていたとしても、そのお金で船に乗れず、手紙を送れず、誰かに会いに行けないのなら……それは失ったのと変わらなかったと思います」
美咲さんは、指先でコーヒーカップの取っ手を静かに触っていた。
「もし、そのお金が残っていたら……佐伯さんは日本へ戻ることができたのでしょうか」
僕はすぐには答えられなかった。
鞆の浦の写真が浮かんだ。
若い佐伯春雄。
その隣にいた千代子。
「わかりません。でも少なくとも、選べる道はもう少し残っていたのかもしれません」
「選べる道……」
美咲さんは静かに言った。
「佐伯さんはお金を失ったのではなくて……戻る方法を失ったのかもしれませんね」
祖父が失ったものは、お金だった。
けれど、そのお金が崩れたことで、
千代子へ届く可能性も、一緒に崩れたのかもしれない。
僕は画面を見つめた。
朝鮮銀行券。
過去に使われていた通貨の名前。
けれど今の僕には、祖父の未来を塞いでしまった壁の名前のように見えた。




