第63話 多富洞へ行くらしい
翌日、僕はカフェで美咲さんと向かい合って座った。
美咲さんは席に着く前、小さな紙袋をテーブルの横にそっと置いた。
「これ……この前話していた、瀬戸田レモンのお菓子です」
美咲さんは少し迷ってから、その紙袋を僕のほうへ差し出した。
「たいしたものではないんですけど、よかったら」
僕は両手で紙袋を受け取った。
思っていたより、少し重かった。
一瞬、これを受け取っていいのだろうかと思ったが、ここで彼女の好意を断ることはできなかった。
「ありがとうございます。宿でいただきます」
紙袋を横に置いた。
中に見える黄色い包みは、昨日検索した画像に似ていた。
美咲さんは僕の顔を見て、そっと尋ねた。
「昨日、続きを読まれましたか」
「少しだけ」
僕は昨日読んだ手帳の内容を簡単に伝えながら、ノートパソコンでファイルを開き、手早く見せた。
「二等兵になって、M1小銃を渡されたと書いてありました。そのあと、方虎山という指揮官の部隊と戦うことになった話が出てきます」
M1小銃について簡単に説明し、僕も予備軍訓練で使ったことがあると話すと、美咲さんは興味深そうな反応を見せた。
それから僕は、方虎山の項目を指した。
「有名な人物だったみたいです」
僕は昨日検索した画面をもう一度見せた。
ちょうど日本語版もあったので、それを見せると、美咲さんはしばらく読んでいた。
「ハルさんのお祖父さま、佐伯さんは、この人が率いる部隊と戦ったということですよね」
「そうです。銃弾が飛び交い、砲弾が飛んでくる場所で、生き残ったんです」
僕は画面をもう一度進めた。
少しして、僕が最後に読んだ手帳の内容が出てきた。
「生き残った。
一等兵になった。」
僕は続けて画面を進めた。
今度は、内容がかなり長かった。
一等兵になったからだろうか。
少しは自分の時間が増えたようにも見えた。
手帳の内容を確認した。
「パン・ホサンの部隊は強かった。
けれど、戦線を突破することはできなかった。
最初に一緒に来た者たちのうち、知っている顔がずいぶん減った。
死んだ者の代わりに、新兵が来た。
僕は一等兵だった。
新兵たちの前に立てと言われた。
明日も同じ顔を見られるかどうかわからない。
僕も生きているかどうかわからない。」
美咲さんはコーヒーカップに手を添えたまま、ゆっくりと目を伏せた。
「一等兵になったというのは……階級が上がったということですよね」
「はい」
僕は少し言葉を選んだ。
「戦場では、前線でそのまま階級が上がることもあったと聞いています。祖父も、そういう場合だったのだと思います」
「どうしてですか。手柄を立てたからですか」
「手帳の内容を見るかぎり、そうではなさそうです」
「では?」
「最初に一緒に来た人たちが戦死すれば、生き残った人間は自然と前に立つことになります。新しく来る新兵たちを率いる兵が必要になるからです」
美咲さんは何も言わなかった。
今まで美咲さんにとって、戦争というものはとても抽象的だったのかもしれない。
けれど、こうして前線にいた男の記録を目にすると、戦争というものがあまりにも近く感じられるように見えた。
僕は少しのあいだ、美咲さんが落ち着くのを待ってから、また画面を進め始めた。
「では、次の内容へ進みます」
急いで書いたような文字が、目に入った。
「僕と同じ一等兵たちが呼び出された。
新兵たちと一緒に移動する。
タブドンへ行くらしい。」
僕は最後の行をもう一度見た。
タブドン。
手帳には、音のまま、そう書かれていた。
僕はその名前を低く読んだ。
美咲さんが僕を見た。
「ご存じの場所ですか」
「少し待ってください。もう少し詳しく確認してみます」
僕は韓国の検索サイトを開き、ハングルで「다부동」と入力した。
少しして、検索結果にその地名の説明が表示された。
見出しには、ハングルの横に漢字表記も添えられていた。
多富洞。
大邱の北にある地名だった。
僕は地図を拡大した。
「多富洞は……朝鮮戦争の主要な戦闘を語るとき、必ず出てくる地名です」
美咲さんが画面を見つめた。
「重要な場所なんですか」
「はい。当時、韓国軍と国連軍は洛東江の防衛線まで押し込まれていました。ですが、多富洞を突破されると、大邱が危険になります」
僕は画面上の地図を指で示した。
「そして大邱が揺らげば、洛東江の防衛線全体も揺らぐ可能性がありました。つまり多富洞は、必ず守らなければならない要地だったんです」
僕は検索結果を日本語に訳して、美咲さんに見せた。
多富洞の戦い。
検索結果には、その言葉が続いていた。
美咲さんは何も言わずに画面を見つめていた。
「方虎山の部隊を食い止めていた前線も、危険だったはずです。でも、さらに急を要する場所ができたのでしょう。だから一部の兵力を抜いて、そこへ回したのだと思います」
僕は画面を見つめた。
多富洞。
そこが、祖父の次の戦場だった。




