第62話 塩の味がした
次の手帳の紙片は、前のものより少し長かった。
今回も日付は書かれていなかった。
ただ、文字は前より少し続いていた。
前線に着いたあと、ごく短い時間でも、ひとりになる余裕ができたのだろうか。
僕はそう思いながら、画面の文字を読み始めた。
「二等兵になった。
訓練兵ではない、と言われた。」
僕はその最初の文を、しばらく見つめた。
僕は海軍訓練所の教育を修了し、二等兵になったときのことを思い出した。
兵の中ではいちばん下の階級だったが、そのときはとても誇らしかった。
教練、射撃、各個戦闘、化学防護訓練、戦闘水泳、行軍など、六週間のきつい訓練に耐えて終えた証だったからだ。
けれど、祖父の佐伯春雄が書いた二等兵という言葉は、とても重く感じられた。
もう訓練兵ではない。
実戦に投入され、命を懸けなければならないという意味に思えた。
手帳の文字は続いていた。
「M1を渡された。
訓練所で撃ったものと同じだった。
米軍の小銃だと言っていた。
長い。重い。」
僕は無意識に、画面の中のM1という文字を見つめていた。
「予備軍訓練のときに使った銃だ」
僕は現役のころにM1小銃を使ったことはなかった。
僕が兵役に就いていたころには、すでに現役装備から外れ、予備物資として残っていた銃だった。
除隊後の予備軍訓練で、M1小銃を使って訓練したことがあった。
「そのとき、かなり大きくて重いと思ったんだよな。祖父も同じように思ったのか」
次の行は、食事についてだった。
「握り飯をもらった。
塩の味がした。
少し酸っぱい。
でも食べた。
食べなければ、立っていられない。」
僕は何も言えず、それをじっと見つめた。
それから、前に置かれたコーヒーを一口飲んだ。
甘かった。
今なら、いつでも口にできる砂糖。
けれど戦場にいる祖父は、塩の味がする握り飯を食べて、耐えなければならなかった。
僕は次の行へ視線を移した。
「パン・ホサンの部隊が来るらしい。
強い部隊だと言っていた。
その名前を知っている者が多かった。
僕だけが知らなかった。」
パン・ホサン。
手帳には、そう聞こえる名前が書かれていた。
「パン……ホサン……誰だろう」
僕はまた、次の内容を確認した。
「逃げようとした者がいるらしい。
捕まれば撃たれる、と誰かが言った。
誰も笑わなかった。」
僕は唇を閉じた。
戦時だった。
そんな言葉は、冗談には聞こえなかったはずだ。
祖父が感じた恐怖が、その短い文の中に残っていた。
そして次の行から、字が少し乱れていた。
「銃声がした。
どこから撃たれているのかもわからないまま、初めての戦闘が始まった。
隣にいた兵が倒れた。
僕は身を伏せた。
土の匂いがした。
生きていた。」
僕は最後の行から目を離せなかった。
祖父が、初めての戦闘で何をしたのかはわからなかった。
けれど、結果だけは残っていた。
生きていた。
僕は冷めてしまったコーヒーを一口飲んだ。
今度は、甘さを感じなかった。
僕は検索窓を開いた。
「パン・ホサン……出てきた」
僕は低くつぶやいた。
画面には、漢字の名前とともに、その経歴が出ていた。
方虎山。
姓は方、名は虎山。
北朝鮮軍第六師団長。
中国内戦を経験した朝鮮系の兵士を主力とする部隊を率いて、北朝鮮へ入った人物。
その部隊はのちに北朝鮮軍第六師団となり、方虎山は朝鮮戦争が始まったとき、その師団を指揮していた。
僕は検索結果をゆっくり読んだ。
韓国人だからといって、朝鮮戦争のすべての将軍や、すべての部隊を知っているわけではなかった。
僕は今、初めて彼について詳しく知っていった。
かなり有能な野戦指揮官だったという説明も見えた。
米軍指揮官が、方虎山の部隊の機動を高く評価したという内容もあった。
けれど、その下には別の言葉もあった。
占領地での民間人虐殺。
僕はその行で手を止めた。
祖父の手帳には、ただ、強い部隊だとだけ書かれていた。
その名前を知っている者が多かった、とあった。
けれどその名前が兵士たちのあいだで恐怖のように広がっていた理由は、戦闘に強かったからだけではなかったのかもしれない。
僕はノートパソコンを閉じた。
「はあ」
長く息を吐いた。
美咲さんのいない向かいの席が、思っていたより大きく空いていた。
僕はカフェを出た。
宿へまっすぐ戻るつもりだったが、少し遠回りして海のほうの道を歩いた。
美咲さんがいたら、この海を見ながら何か言っただろうか。
そう思ってから、僕は少し驚いた。
いつの間にか、この記録を読むことは、ひとりですることではなくなっていたようだった。
そのとき、空腹を覚えた。
コンビニに寄った。
棚には、おにぎりが何列も並んでいた。
鮭、ツナマヨ、昆布、梅、明太子など。
僕はしばらく、その前で動けなかった。
選択肢が多すぎた。
そのとき、手帳の一行が浮かんだ。
「塩の味がした。」
僕は結局、いちばんシンプルな塩むすびとお茶を選んだ。
コンビニを出て、僕は宿へ戻った。
部屋に入り、ノートパソコンを机の上に置いた。
おにぎりの包みを開けた。
塩の味がするおにぎり。
祖父が感じた味を、ほんの少しだけ、僕も感じられた。
僕はお茶を一口飲み、またノートパソコンを開いて、次の手帳の紙片を開いた。
「生き残った。
一等兵になった。」




