第61話 前線に着いた
次に続く手帳の紙片には、日付が書かれていなかった。
ただ、短い一行だけがあった。
「前線に着いた。」
僕はしばらくその文を見つめてから、美咲さんに言った。
「手帳には『前線に着いた』とだけありますが、前の紙片には洛東江のほうだと書かれていました。一九五〇年七月なら、そのあたりに防衛線が作られつつあった時期だったと思います」
「洛東江というのは……どこにある川なんですか」
僕はノートパソコンで新しいウィンドウを開き、地図を検索した。
朝鮮半島の地図が画面に現れた。
「ここです」
僕は画面を少し拡大した。
「洛東江は、韓国の南東部を流れる大きな川です。大邱や釜山のほうを守るうえで、重要な位置にあります」
美咲さんは、画面の近くへ視線を移した。
「ここなんですね」
僕はうなずいた。
「朝鮮戦争が始まってから、韓国軍はずっと南へ押され続けていました。ソウルが陥落して、大田も危うくなって、前線はどんどん南へ下がっていきました」
僕は地図の南東の端を指した。
「一九五〇年七月なら、洛東江の周辺に最後の防衛線が作られつつあったころだったと思います」
「最後の防衛線……」
美咲さんが低く繰り返した。
「ここを抜かれたら、韓国は事実上、終わりでした。釜山の後ろには、もう退く場所がほとんど残っていなかったからです。」
美咲さんは何も言わなかった。
「そんな場所へ……送られたんですね」
「はい」
美咲さんはしばらく地図を見つめてから、慎重に尋ねた。
「前線に立つというのは……どんな気持ちなのでしょう」
僕はすぐには答えられなかった。
韓国軍で兵役に就いたことはあるが、僕が経験したのはあくまで訓練で、祖父が立たされたような実際の戦場ではなかった。
「訓練所で、各個戦闘という訓練を受けたことがあります」
「各個戦闘、ですか」
「はい。銃を持ったまま体を低くして、土の上を這い、鉄条網の下をくぐって、指示に合わせて前へ進む訓練です」
美咲さんが少し考えるように言った。
「映画で見たことがある気がします。兵士が這って、頭の上を銃声が通り過ぎるような場面……」
「はい。そういう場面を思い浮かべると、近いかもしれません」
僕は少し言葉を止めた。
「でも、僕が受けたのは、あくまで管理された訓練でした。誰かが止まれと言えば止まることができましたし、終われば休むこともできました。けがをしないように決められた手順もありました」
僕はもう一度、手帳の文字を見た。
「前線に着いた。」
「でも祖父が行った場所は、そういう訓練場ではありませんでした」
僕の声が少し低くなった。
「僕には、そのときの気持ちがわかるとは言えません。軽々しく、そう言う資格もないと思います」
僕は画面の文を指した。
「僕の祖父、佐伯春雄は、ただ『前線に着いた』とだけ書いています。もしかすると、もう『怖い』と書く余裕さえなかったのかもしれません」
「そうかもしれませんね」
美咲さんがゆっくりとうなずいた。
そのときだった。
美咲さんのスマートフォンが短く鳴った。
彼女は画面を確認して、少し困った顔になった。
「母です」
「出てください」
美咲さんは申し訳なさそうに頭を下げて、電話に出た。
通話は長くなかった。
けれど、彼女の表情には少しずつ困った色が浮かんでいった。
電話を切ったあと、美咲さんはしばらくスマートフォンを見下ろしていた。
「何かあったんですか」
「大きなことではないんです」
彼女はそう言ったあとも、すぐには次の言葉を続けられなかった。
「遠くに住んでいる親戚が急に来たそうです。母ひとりで迎えても大丈夫ではあるんですけど……家のほうのことなので、私もいたほうがよさそうで」
「あ……」
僕はノートパソコンの画面と美咲さんを交互に見た。
美咲さんが先に言った。
「すみません。こんな時に」
「いえ。ご家族のことなら、行かれたほうがいいです」
「でも、資料が……」
僕はマウスから手を離した。
「僕が先に読んでおきます」
美咲さんが僕を見た。
「おひとりで、ですか」
「読めるところだけ先に確認して、明日まとめてお話しします。大事そうなところがあれば、印をつけておきます」
美咲さんは、すぐには答えられなかった。
たぶん彼女も、僕ひとりにこの記録を読ませることが気にかかっているのだと思った。
「無理しないでください」
「はい」
「本当に」
僕はうなずいた。
「わかりました」
美咲さんは鞄を整えた。
それから、ふと思い出したように、少しぎこちなく笑った。
「あ、それから……」
「はい?」
「親戚が瀬戸田レモンのお菓子を持ってきてくれたそうなので。次に来るとき、少し持ってきますね」
「大丈夫です」
僕はほとんど反射的に言った。
けれど美咲さんは首を横に振った。
「いいえ。ハルさんにも食べてみてほしいので」
そう言われると、僕はそれ以上断れなかった。
「では……ありがたくいただきます」
「はい」
美咲さんは少し安心したように笑った。
その笑みは短かった。
けれどカフェを出ていく彼女の後ろ姿を見ながら、僕はなぜかその言葉を長く思い出していた。
瀬戸田レモンのお菓子。
彼女が扉の外へ消えたあとも、僕はしばらく次のファイルを開くことができなかった。
ノートパソコンの画面には、まだ読んでいない手帳の紙片が残っていた。
それなのに先に浮かんだのは、さっき美咲さんが言ったお菓子のことだった。
僕は検索窓を開いた。
瀬戸田レモンのお菓子。
画面に、明るい黄色の包みが並んだ。
レモンケーキ、レモンクッキー、島の名前がついた小さな土産箱。
僕はしばらくその画面を眺めながら、おいしかった、旅の土産に選んだ、瀬戸内海を思い出した、といった短い感想をいくつか目で追った。
どうして美咲さんがそれを僕に持ってくると言ったのか、少しだけわかる気がした。
僕はしばらくのあいだ、普通の旅行者のような気持ちでその画面を見ていた。
少しして、検索窓を閉じた。
もう一度、手帳のファイルを開いた。
黄色い包みのかわりに、黄ばんだ紙が画面を満たした。
昭和二十五年七月。
画面の中で、戦争の時間はまだ続いていた。




