第60話 倉庫の匂いがした軍服
翌朝、僕はまた同じカフェに座っていた。
窓際からは少し離れていて、後ろが壁になっている。ノートパソコンを開いても、画面がほかの客から簡単には見えない席だった。
美咲さんは、僕より少し先に来ていた。
「おはようございます」
「おはようございます、ハルさん。あれ、今日はアイスアメリカーノではないんですね」
「今日は少し、甘いものが飲みたくて」
砂糖のたっぷり入った温かいコーヒーが、テーブルの上に置かれていた。
そのとき、スマートフォンが短く鳴った。
母だった。
僕はすぐに画面を確認した。
[表を中心に先に送ったよ。裏は見えるものだけスキャンして、浮かないものはそのままにしておいた]
僕は短く礼のメッセージを送り、ノートパソコンを開いて、送られてきたファイルを確認した。
「来ました」
美咲さんが、少し身を乗り出した。
「お母さまが送ってくださったんですか」
「はい」
最初のファイルを開くと、画面いっぱいにノートの一ページが映った。
その上に、小さな紙片がいくつも貼られていた。
ある紙は上のほうだけが貼られていて、ある紙は角が折れていた。
古い糊の跡も見えた。
黄ばんだ紙の上に、細い文字がびっしり残っていた。
「本当に手帳みたいですね」
美咲さんが低く言った。
僕は画面を拡大した。
「まず、いちばん左上から確認してみます」
紙のしわのせいで、一部は曲がっていた。インクなのか鉛筆なのかわからない線も、薄く滲んでいた。
「ぼやけていますけど、読めそうです」
「日本語ですね」
上のほうに、日付のように見える文字があった。
僕はカーソルを動かし、画面をもう少し拡大した。
美咲さんが先に読んだ。
「昭和二十五年七月……」
僕は唇の内側を軽く噛んだ。
「一九五〇年七月。朝鮮戦争が始まって、まだそれほど経っていないころですね」
僕はゆっくり、その下の内容を追い始めた。
文字は急いで書かれたようで、ところどころ一字ずつ途切れていた。
どこか、乾いていた。
感情を書き留める余裕さえなかった人の文字のように見えた。
「一日目。
連れてこられた。
私のことを話す暇はなかった。
話しても、無駄に見えた」
僕はその部分を、しばらく見つめていた。
美咲さんも、何も言わなかった。
「連れてこられた……」
彼女が小さくつぶやいた。
僕はうなずいた。
「そういう状況だったのでしょうね。自分のことを説明する余裕も、ほとんどなかったのだと思います」
次の行は、もう少しぼやけていた。
僕は画面を少し下へ動かした。
「二日目。
人数が多い。
誰も、詳しいことを聞かない。
聞いても、答える者がいない」
「人数が多い……」
僕の声が少し低くなった。
「召集された人が多かったのだと思います。質問できる空気でもなく、聞いたところで、答えられる人もいなかったのでしょう」
僕はまた次の行を読んだ。
「三日目。
号令に合わせて動く。
立つ。並ぶ。伏せる。
何度も同じことをする」
「教練のようですね」
美咲さんが言った。
「はい。命令に合わせて動けるようにする訓練だったはずです。訓練所で、最初に教えるようなことです」
三日目の下で、文字はいったん切れていた。
僕は画面を少し右へ動かした。
すぐ隣に、同じくらいの大きさの紙片が貼られていた。
そこにも、同じ筆跡が続いていた。
「続きみたいです」
「四日目、ですね」
美咲さんが、画面をのぞき込むようにして言った。
僕は次の行へ視線を移した。
「四日目。
銃を持たされた。
重い。
撃つ形を習う。
まだ、自分のものではないように思う」
僕はその文を読んで、しばらく目を閉じた。
僕が訓練所で初めて銃を持ったときの感覚。
その重さが、ごく薄く、また戻ってきたような気がした。
「本格的に銃を持たされ始めたようです」
手帳の文字は続いていた。
「五日目。
撃った。
音が体の中に残る。
うまく撃てたのかどうか、わからない」
「射撃訓練が続いたようですね。少なくとも銃の扱い方だけは覚えなければ、前線には立たせられないと判断されたのでしょう」
僕の言葉に、美咲さんは静かにうなずいた。
前に軍隊の話を聞いていたからか、彼女は僕の言葉をすぐに理解しているようだった。
僕は次の部分を拡大した。
「六日目。
服を渡された。
古い。
日本軍のものに見える。
倉庫の匂いがした。
いまはこれを着ろ、と言われた。
あとで別の軍服を渡す、とも言われた」
「日本軍のものに見える……」
美咲さんが低く読んだ。
僕は画面から目を離せなかった。
わずか数行だけで、その時代の混乱が見えるようだった。
その瞬間、最初に倉庫の木箱の中で見つけた古い軍服が思い浮かんだ。
くすんだカーキ色。
錆びたボタン。
僕の知っている韓国軍の軍服とは違っていた形。
あのときは、正確にどこの国の軍服なのかわからなかった。
けれど今、画面の中の一文が、その軍服がどこから来たのかを、少しずつ語っているように見えた。
「これが……ありえたのでしょうか」
美咲さんが尋ねた。
僕は少し考えた。
「創軍初期の韓国軍の軍服は、いろいろな物資が混じっていたのだと思います。米軍の物資もあったでしょうし、日本軍の物資が残っていた可能性もあります」
「日本軍の物資が……」
「はい。倉庫に残っていたものが米軍政のあとに接収されたのかもしれませんし、どこかを経て韓国軍のほうへ入ったのかもしれません」
僕はそこで、少し言葉を止めた。
「もちろん、まだ推測です」
美咲さんは、ゆっくりうなずいた。
僕はまた画面を見た。
二枚目の紙片の最後の部分は、折れ目のせいで少し隠れていた。
母が無理にめくらなかったおかげで紙は破れていなかったが、そのぶん一部の文字はぼやけていた。
僕は拡大率をもう少し上げた。
文字は崩れそうなほど大きくなったが、それでも読めた。
「七日目。
明日、前線へ送られる。
洛東江のほうだと聞いた。
怖い」
その最後の二文字の前で、僕は手を止めた。
怖い。
その言葉には、ほかの文字よりも力が入っていた。
美咲さんも、その言葉を見ていた。
「怖い……。まさか、たった数日だけ銃の撃ち方を教えて、そのまま前線に送ったんですか」
美咲さんが、慎重に尋ねた。
「その可能性は高いと思います」
僕は画面を見ながら言った。
「戦況があまりにも急でしたから。教練、銃の持ち方、撃ち方。その程度だけを覚えさせて送らなければならない状況だったのかもしれません」
「洛東江……明日……」
僕は画面を見つめていた。
何も言うことができなかった。
美咲さんが、慎重に口を開いた。
「普通に暮らしていた人が、急に軍隊に連れていかれて、数日だけ基本的な教練と銃の撃ち方を覚えて、それから、そのまま前線に送られるとしたら……」
彼女は、最後まで言葉を続けられなかった。
「本当に……何と言えばいいのかわかりません」
「僕もです」
カフェの中では、相変わらずカップが置かれる音と、扉が開閉する音が聞こえていた。
誰かが注文し、誰かが笑っていた。
平和な音は、こんなに近くにあった。
けれどノートパソコンの画面の中で、祖父は戦争の中を、その身でくぐっていた。
「次のページも……」
美咲さんが、慎重に口を開いた。
「見ましょうか」
「はい」
僕は小さく言った。
「見ましょう」
まだ読んでいない紙片が、ノートの上に並ぶように貼られていた。
祖父の時間は、まだ続いていた。




