第59話 貼られていた手帳のページ
美咲さんは、しばらく画面から目を離せなかった。
僕も同じだった。
「戦争が始まったあと……」
美咲さんが静かに尋ねた。
「そんなに早く、人を召集したんですか」
僕は少し考えた。
「朝鮮戦争は、一九五〇年六月二十五日、北朝鮮の人民軍による奇襲的な南侵から始まりました」
「三十八度線を越えた部隊は一気に南へ進み、ソウルも三日で陥落しました」
美咲さんの顔がこわばった。
「そこまで早かったんですか」
「はい。だから七月には、もう戦況はかなり切迫していたはずです」
「当時の韓国軍も、人を選んでゆっくり呼べる状況ではなかったと思います。銃を持てる男なら、まず呼び出すべきだと判断した可能性が高いです」
「それでも……」
美咲さんは、言葉を続けられなかった。
しばらくして、ようやく口を開いた。
「それでも佐伯さんは、日本人ですよね」
「書類上は韓国人になっていたはずです」
「人を集める側は、ただその地域にいる若い男たちを調べて、名簿を作って、決められた人数を埋めたのでしょう」
「そんなふうに……」
「はい」
僕は短く答えた。
「そんなふうに、誰かの人生が突然断ち切られたのだと思います」
僕は、近年のウクライナ戦争のことを口にした。
「YouTubeなどで、動員のために若い男たちを連れていく映像を見たことはありますか」
「偶然、何度か見たことはあると思います。女性たちが男の人を連れていかせないように止めても、無理やり連れていくような……」
「当時の韓国も、銃を持てる男なら、区別なく呼び出した可能性が高いです」
僕はそう言いながら、画面を指した。
「こういう書類を一枚渡しただけで、です」
美咲さんは、僕の言葉を静かに聞いていた。
僕は別の話を続けた。
「当時の動員に関して、こんな話もあります。本当か、ただの噂なのかはわかりませんが」
「どんな話ですか」
美咲さんが尋ねた。
「父親が戦争に行きたくなくて押し入れの中に隠れたのに、呼びに来た巡査と、面事務所――村役場のような場所の職員が、四、五歳くらいの幼い娘に『お父さんがどこに行ったか、当ててみるかい』と聞いたそうです。そして『当てたらおじさんがこれをあげる』と言って、飴を見せたそうです」
「何も知らない娘がお父さんのいる場所を指さすと、警察の人たちは父親を捕まえて連れていき、その父親は帰ってこなかったそうです」
「その後、その人は自分のせいで父親が死んだという罪悪感を抱くようになって、何十年も経っておばあさんになってから、朝鮮戦争の遺骨発掘団から父親の遺骨が見つかったという連絡を受けたそうです」
今もまだ、韓国では朝鮮戦争当時の遺骨発掘が続いている。
そうして発掘された遺骨は、軍籍番号の確認やDNA鑑定などを経て、遺族へ届けられる。
「ひどいです。本当に、ひどいです」
美咲さんは、まるで自分がその場にいたかのように、泣き出しそうな顔をしていた。
そのとき、スマートフォンが短く鳴った。
母だった。
僕は画面を確認し、すぐに電話をかけた。
「どうしたんですか。スキャンに問題がありますか」
母が少し困った声で言った。
『やってみようと思ったら、思ったより少し複雑なの』
「複雑ですか」
『一冊目のノートのことなんだけど。ただ紙が貼ってあるだけだと思っていたら、よく見ると、小さな手帳を破ったみたいな紙があちこちに貼ってあるの。べたべた貼ってあるっていうか……とにかく、そのまま広げてスキャンすれば表は写るんだけど、裏まで見るには一枚ずつめくってみないといけないみたい』
僕は一瞬、言葉を止めた。
「小さな手帳を破ったみたいな紙ですか」
『うん。大きさがだいたい同じなの。ノートの紙よりずっと小さくて。上のほうだけ貼ってあるようなものもあるし、折られているものもある。これを一枚ずつはがして、表と裏を全部スキャンしようとしたら、少し時間がかかりそう』
「はがさないでください」
僕はほとんど反射的に言った。
美咲さんが、僕のほうを見た。
「古い紙なので、破れるかもしれません。絶対にはがさないでください」
『じゃあ、裏はどうするの?』
「まず表を全部スキャンしてください。貼ってある状態のままで。それから、紙が自然に少し浮くところだけ、無理せず少しめくって裏を撮ってください。浮かないものはそのままにしてください」
『それでいいの?』
「はい。破れるよりずっといいです」
母はしばらく黙っていた。
受話器の向こうで、紙を触るような小さな音が聞こえた。
『それから、あなたが言っていた二冊目のノートがあるでしょう。それと時期を合わせて送ってほしいって言っていたけど、お母さんにはどれが同じ時期なのかよくわからないの。日本の年号も紛らわしくて』
「大丈夫です。それは僕が見ます。順番どおりに送ってくれればいいです」
僕は美咲さんを見た。
彼女は、僕が何の話をしているのか気にしているようだった。
「ひとまず、一冊目のノートで手帳の切れ端みたいに貼ってある部分だけ、全部送ってください。表からです。裏は無理しないで、できるものだけで大丈夫です」
『わかった。でも、今日すぐには難しいかもしれない』
「ゆっくりやってください」
『夕方までやってみて、無理なら明日の午前中に送るね』
「大丈夫です。指は?」
『大丈夫。ゆっくりやるから』
僕は何度も無理しないでくださいと言ってから、通話を切った。
スマートフォンを置いても、しばらく画面を見ることができなかった。
小さな手帳を破ったような紙。
その言葉が、頭の中でずっと回っていた。
「もしかすると……」
僕の言葉に、美咲さんが僕を見た。
「手帳を破って貼ったようなページが、一冊目のノートにあったようです」
「手帳……ですか」
「はい」
僕はノートパソコンの画面を見た。
「一冊目のノートは、ただ資料を貼っておいたノートだと思っていました。物資の記録や領収書、名簿のようなものが混じっていましたから」
けれど、それがすべてではないのかもしれなかった。
僕はゆっくり言葉を続けた。
「もしそこに小さな手帳のページが貼ってあったのなら……祖父がそのときそのときに小さな手帳へ書いておいたものを、あとでノートに移して貼ったのかもしれません」
「あとで……ですか」
「はい」
僕は少し言葉を選んだ。
「急に軍へ連れていかれた人が、きちんとしたノートに落ち着いて記録を残すのは難しかったはずです。でも、ポケットに入れられる小さな手帳なら……」
美咲さんは黙って聞いていた。
「そのとき書いておいたものを、あとで戻ってきてから破って貼ったのかもしれません」
美咲さんが慎重に言った。
「では、そのあとに出てくる物品関係の領収書のようなものは、朴相吉さんが残って処理していたのでしょうか」
「そうかもしれません。あるいは、祖父が連れていかれる前に預けておいた仕事が、あとになって整理されたのかもしれません。まだわかりませんね」
また沈黙が流れた。
美咲さんが低い声で尋ねた。
「朝鮮戦争は……いったい、どんな戦争だったんですか」
僕は少し考えた。
一文で説明できる戦争ではなかった。
「北朝鮮の人民軍による奇襲的な南侵から始まった戦争です」
僕はまず、そう言った。
「けれど同時に、同じ言葉を話す人たち同士が、互いのことを知りすぎていた戦争でもありました」
美咲さんが僕を見た。
「互いのことを知りすぎていた、というのは……」
「同じ村で暮らして、互いの家の事情を知っていて、誰が何をしたのかも知っています」
僕は少し言葉を止めた。
「昨日まで隣人だった人が、今日は密告者になることもあります。あの人は警察の家族だ。あの人は軍人の家族だ。あの人は米軍と関係がある。あの人は反共的なことを言ったことがある」
僕の声が、少し低くなった。
「そういう言葉だけで、誰かが連れていかれることもありました。虐殺も起きました」
美咲さんの手が、テーブルの上で止まった。
僕はそれ以上、詳しくは話さなかった。
けれど彼女は、もうわかったようだった。
「あ……」
美咲さんが、とても低くつぶやいた。
「人民裁判……」
その言葉が、テーブルの上に落ちた。
美咲さんは、高 山と浜野フミのことを思い出したのだろう。
もう画面だけを見続けているのは難しかった。
僕もそうだったし、美咲さんもそうだったようだ。
先に口を開いたのは、美咲さんだった。
「少し……外を歩きませんか」
僕は彼女を見た。
「大丈夫ですか」
「はい。ここで見続けても、今は新しくわかることがなさそうなので」
その言葉は正しかった。
僕たちはカフェを出て、路地を抜け、港のほうへ歩いた。
まだ昼食の時間が完全に過ぎたわけではないのか、道には観光客が何人かゆっくり歩いていた。
写真を撮っている人もいれば、店の前のメニューをのぞき込んでいる人もいた。
美咲さんは、慣れた足取りで道を歩いた。
僕はその隣で、少し遅れないように歩幅を合わせた。
港が近づくと、海が見えた。
常夜灯も見えた。
そこは、最初にここへ来たときから、何度も見てきた場所だった。
けれど今日は、違って見えた。
歩いているうちに、常夜灯の前に着いた。
千代子と祖父が、一緒に立っていた場所。
僕はしばらく足を止めた。
美咲さんも、僕の隣で立ち止まった。
「ここまで来ると……」
僕は低く言った。
「いつも、最初に戻ってくる気がします」
「最初、ですか」
「はい。写真も、千代子さんの手帳も、結局ここへ戻ってきますから」
美咲さんは常夜灯のほうを見た。
海風が吹いた。
海は穏やかだった。
もし祖父が、あの戦争に巻き込まれる前に日本へ戻ることができていたなら。
僕はその考えを、静かに口に出した。
「もし祖父が、あの戦争に巻き込まれる前に日本へ戻ることができていたなら……」
美咲さんが僕を見た。
僕は常夜灯の向こうの海を見ながら言った。
「もしかすると千代子さんと一緒に、この海を歩いていたのかもしれませんね」
美咲さんは、しばらく何も言わなかった。
海を見ていた。
そして、とても静かに言った。
「そうだったら、私たちはここで会えなかったでしょうね」
僕は彼女を見た。
「そうですね」
美咲さんは少し考えてから、ごく小さく笑った。
「いえ……もしかすると、生まれていなかったかもしれませんし」
その言葉に、僕も少し笑ってしまった。
笑っていい話なのかはわからなかった。
けれど美咲さんも笑っていて、僕も笑っていた。
それからしばらく、僕たちは何も言わずに歩いた。
商店街のほうへ戻って、簡単に昼食を取った。
けれど頭の中が複雑で、何を食べたのかはよく覚えていない。
温かい汁物と、箸を持つ手の感覚。
それから、美咲さんが水のコップを僕のほうへ少し押してくれたこと。
そのくらいは、記憶に残りそうだった。
食事を終えて外へ出ると、午後の光が少し傾いていた。
「今日は、ここまでにしましょうか」
美咲さんが尋ねた。
僕はうなずいた。
「はい。新しい資料が届くまでは、これ以上見られるものも多くありませんから」
その日、僕たちは少し早めに別れた。
宿へ戻る道で、僕は何度もスマートフォンを確認した。
新しいメッセージはなかった。
宿に着き、手を洗って、水を一杯飲んだ。
ベッドの横に座ってスマートフォンを置いたとき、短い通知が鳴った。
母だった。
[明日の午前中に、作業した分を整理して送るね]
僕はその一文を、しばらく見つめていた。
小さな手帳を破ったような紙。
まだ開かれていない記憶が、ゆっくりと僕たちのほうへ近づいていた。




