第58話 別の名前で
翌朝。
約束の時間より少し早くカフェに着いた僕は、窓際の席に座っていた。
テーブルの上には、アイスアメリカーノ一杯とスマートフォンだけを置いていた。
ドアが開いて美咲さんが入ってきたとき、僕はすぐに気づいた。
美咲さんの表情が、あまりよくなかった。
早苗さんと何かあったのかもしれない。
「お待たせしました」
「いえ。僕も今来たところです」
何かあったのかと聞きたかったが、どうしても聞けなかった。
美咲さんも、自分からは話さなかった。
少し待ってから、僕はカフェの壁に掛かった時計を確認し、口を開いた。
「今日の午前十時までには、ひとまずスキャンした分を送ってくださるそうです」
美咲さんも、壁の時計を見た。
十時までは、まだ少し時間があった。
「韓国も、今は同じ時間ですよね」
「はい。日本と韓国は時差がありません」
「それは助かりますね。ややこしい時差を計算しなくて済みますから」
「はい。そこは楽です。メッセージを送るときも、電話をするときも」
そうやって言葉を交わしたせいか、硬かった美咲さんの雰囲気が少しだけ和らいだ。
僕はノートパソコンを取り出した。
数日前、彼女が僕に貸してくれたものだった。
それは、古い記録を一緒にのぞき込むための窓になっていた。
「指は大丈夫だそうですか」
美咲さんが尋ねた。
「無理しないでくださいとは伝えました」
「申し訳ないですね。私たちが何度もお願いしてしまって」
「いえ。母も知りたがっていますから」
十時になる数分前、僕たちはカフェのWi-Fiにノートパソコンをつないだ。
美咲さんは温かいコーヒーを注文し、僕はアイスアメリカーノをもう一杯頼んだ。
そして十時を少し過ぎると、スマートフォンが短く鳴った。
「送るそうです」
すぐに、僕のメールへファイルが一つずつ届き始めた。
お願いしたとおり、ノートごとに分けて、混ざらないように送ってくれていた。
僕はノートパソコンへファイルを移した。
美咲さんも、椅子を少し前に引いた。
「どちらから見ますか」
「まず一冊目のノートから見ます。資料と記録のほうですから」
画面に、最初の画像が開いた。
古びた紙と、傾いた文字、かすれた印が見えた。
僕たちは拡大し、また縮小した。
金額と品目が書かれた記録だった。
「米や布、木材、それから運送費のような単語に見えますね」
次の画像へ進んだ。
「これ、英語ではありませんか」
「そうですね」
漢字と日本語が混じった文のあいだに、英語のアルファベットが挟まっていた。
U.S. Supply.
そんな単語が、かすかに見えた。
「軍納……でしょうか」
美咲さんが慎重に言った。
「英語が見えるので、米軍政期の物資供給に関係する書類のようにも見えます。あるいは、それより後のものかもしれません」
僕は画面をゆっくり送りながら、言葉を続けた。
「前のほうにあるからといって、必ず前の時期の資料とは限らないようです。後ろにあった資料のほうが古いかもしれませんし、あとから挟み込まれたのかもしれません」
「とにかく、この資料は今すぐには判断しにくそうですね」
美咲さんが小さくつぶやいた。
それは苛立ちというより、途方に暮れた声に近かった。
そのとき、僕のスマートフォンがまた鳴った。
「お母さまですか」
「いえ」
韓国の会社の同僚から届いたメッセージだった。
[いつ頃戻る?]
その一行を見た瞬間、僕の指が止まった。
続けて、またメッセージが届いた。
[ずっと返事がないから聞いてるんだよ]
[チーム長がずっと探してる]
思わず、表情が固まった。
美咲さんも僕の表情を見たのか、慎重に尋ねた。
「会社ですか」
「はい」
僕はスマートフォンを裏返して置いた。
けれど、まもなくまた振動が鳴った。
今度は、カカオトークのボイストークだった。
同僚の名前が画面に出ていた。
僕は短く息を吐いた。
「すみません。少しだけ電話に出てきます」
「はい。行ってきてください」
僕はスマートフォンを持って、カフェの外へ出た。
ドアが閉まると、店内の静かな音楽とコーヒーマシンの音が後ろへ遠ざかった。
僕はカフェのWi-Fiが届くドアの横に立ち、電話に出た。
「はい」
[おい、やっと出たな]
同僚の声には、安堵と不満が半分ずつ混ざっていた。
「何かありましたか」
[何かって。いつ戻るんだよ。今、本当に忙しいんだ]
「僕は休暇中です」
[それはわかってるけど、でも状況が状況だろ。チーム長がずっとお前を探してるんだよ]
イ・ジフンチーム長。
その名前が口に出る前に、頭の中に顔が浮かんだ。
彼はいつも、忙しそうに振る舞っていた。
けれど実際に仕事を整理するのは、ほかの人に任せていた。
よい結果が出れば自分の名前を前に出し、問題が起きれば責任を避けた。
[お前がいないから、本当に仕事が回ってないんだよ。報告書もたまってるし、資料もごちゃごちゃだし]
同僚はため息をついた。
[チーム長が、お前の整理したファイルはどこだってずっと聞いてる]
僕はしばらく黙っていた。
いつもの僕なら、申し訳ないと言っていただろう。
休暇の日程を短くしてでも、早く業務に戻ると言っていたはずだ。
けれど今回は、そういう言葉が出てこなかった。
心の中で、かすかに笑ってしまった。
僕が会社にいるときは、僕がどれだけ多くの仕事をしているのか見ようとしなかった。
僕が整理した資料を使っても、それを僕が整理したとは言わなかった。
僕が処理した問題を、当然のことだと思っていた。
それなのに、僕が席を外したとたん、今さら僕を探している。
僕はスマートフォンを耳に当てたまま、カフェのガラス扉の向こうを見た。
美咲さんは、ノートパソコンの画面を見ていた。
僕がいないあいだにも、何か手がかりになりそうな資料がないか探してくれているのだ。
僕は改めて口を開いた。
「僕は今、旅行中です」
[え?]
「休暇中です。ですから、何度も連絡されるのは困ります」
同僚が、一瞬言葉を止めた。
[いや、俺はただ……チーム長がずっと探してるから]
「それはチーム長に伝えてください」
[おい、お前そんな態度だと目をつけられるぞ。人事評価がめちゃくちゃになるかもしれないんだぞ]
僕は不思議なくらい落ち着いていた。
いつもなら、人事評価という言葉だけで胸が沈んでいたはずだ。
けれど、今は違った。
「構いません」
[は?]
「休暇は最後まで使ってから戻ります。そう伝えてください」
[おい、ハル。ちょっと待て]
「必要な資料は、僕が出発する前に整理しておきました。場所も共有フォルダにあります。さらに必要なものがあるなら、チーム長に直接確認してもらってください」
自分の口からそんな言葉が出るとは、僕自身も思っていなかった。
けれど一度出てしまうと、不思議と止まらなかった。
「それでは、切ります」
[待て、おい――]
スマートフォンの画面が消えた。
僕はその場にしばらく立っていた。
胸の片側が、少しどきどきしていた。
けれど、不安ではなかった。
むしろ、心が軽くなっていた。
僕はスマートフォンをポケットに入れ、カフェの中へ戻った。
ドアを開けると、またコーヒーの匂いがした。
美咲さんは、まだノートパソコンの画面を見ていた。
ところが僕が席へ戻ろうとした、その瞬間だった。
「んっ――」
美咲さんが、飲んでいたコーヒーをほとんど吹き出しそうになった。
正確には、口の中にあったコーヒーが少しこぼれた。
彼女は慌ててカップを置き、そばにあったティッシュを引き抜いた。
僕は驚いて近づいた。
「大丈夫ですか」
美咲さんは片手で口元を拭き、もう片方の手でノートパソコンのキーボードのほうを確認した。
「大丈夫です。ノートパソコンは……たぶん大丈夫です」
彼女の表情には、戸惑いと驚きが浮かんでいた。
「変な書類があります」
僕は画面をのぞき込んだ。
「どんな書類ですか」
「最初は、私にも何の書類かわかりませんでした。英語もありますし、ハングルもありますし、日本語のように見える文字も混じっていて」
美咲さんは画面を少し拡大した。
「でも、この単語が……変なんです」
画面には、ぼやけた紙が映っていた。
紙の端は暗くにじみ、中央には折り目が走っていた。
名前が書かれていたらしい欄もあった。
けれど、その部分はきちんと見えなかった。
黒い染みとにじみのせいで、そこに文字があったのかどうかさえはっきりしなかった。
その代わり、いくつかの単語が目に入った。
「召集? 出頭? 軍?」
美咲さんが低い声で言った。
「これ……軍に出るようにという内容ではありませんか」
僕は画面をさらに近くで見た。
日付があった。
朝鮮半島で戦争が始まった直後の時期だった。
「徴兵通知書ですか」
美咲さんが尋ねた。
「正確な形式はわかりません。徴兵通知書というより、戦争が始まったあと、急いで召集されたことを知らせる書類のように見えます」
「召集……」
「朝鮮戦争の初期には、北朝鮮の奇襲的な南侵によって、韓国政府は押され続けていました」
僕は画面から目を離さないまま続けた。
「それほど切迫した状況だったので、当時は銃を持てる男なら区別なく韓国軍に動員された、という記録を読んだことがあります」
美咲さんは、画面から目を離せなかった。
「でも……佐伯さん。ハルさんのお祖父さまは、日本人ですよね? どうして韓国軍に?」
佐伯春雄。
僕は名前の欄をもう一度見た。
そこに何が書かれていたのか、今はわからなかった。
けれど僕は、すでに一つの名前を知っていた。
韓国で祖父が生きた名前。
「おそらく」
僕の言葉に、美咲さんが僕を見た。
「この時期の祖父は……もう佐伯春雄ではない、別の名前で生きていたのかもしれません」
「別の名前……」
「最初は、一時的に使うための名前だったのかもしれません。けれど書類の上では、その名前が祖父の名前になっていた」
美咲さんは、画面から目を離せなかった。
「それでも……日本人だったのに」
僕は画面の中の、ぼやけた書類を見つめた。
日本人だった祖父は、別の名前で、朝鮮戦争のただ中へ入っていこうとしていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第二部はこの第58話で一区切りとなります。
次回からは第三部が始まります。
引き続きお付き合いいただけましたら幸いです。




