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鞆の浦にて、千代子と ――海を渡った写真と、二つの名前――  作者: catseye
第二部 鞆の海を忘れられなかった男
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第57話 海の果ての宝物

「このまま何もできないのは、少し惜しいですね」


僕の言葉に、美咲さんがうなずいた。


過去の手がかりを探し出すのは、簡単なことではなかった。


「韓国から資料が届くまでは、すぐに確認できることはなさそうですね」


「そうですね」


美咲さんの言葉に、僕は少し迷ってから彼女に言った。


「それなら……何か食べていきませんか」


美咲さんが、軽く目を瞬いた。


たぶん、僕のほうからそんなことを言うとは思っていなかったのだろう。


けれど、すぐに小さく笑った。


「いいですね。そういえば、もう昼食の時間ですね」


「今治で食べるなら、何かありますか」


美咲さんは少し考えてから言った。


「それなら、今治らしいものにしましょうか」


「今治らしいもの、ですか」


「焼豚玉子飯という料理があります。今治では、かなり有名なんです」


「やきぶた……たまごめし?」


僕の発音が少しぎこちなかったのか、美咲さんが小さく笑った。


「はい。ご飯の上に焼豚をのせて、その上に半熟の卵をのせて、甘辛いタレをかけて食べる料理です」


「ご飯の上に、肉と卵ですね」


「はい。もともとは中華料理店で働く人たちが食べていた、まかないから始まった料理だと聞きました」


「まかない、ですか」


「お店で働く人たちが、仕事の合間に食べる食事です。それが、いつの間にか今治の名物になったみたいです」


美咲さんが車のドアを開けた。


「近くに、それを出しているお店があるはずです。行きましょう」


僕たちは今治の市街地のほうへ移動した。


車窓の外を、建物や店がゆっくり流れていった。


美咲さんがハンドルを握ったまま言った。


「今治は焼き鳥も有名です」


「焼き鳥ですか」


「はい。普通、日本で焼き鳥というと、串に刺して焼くものを思い浮かべるでしょう。けれど今治では、鉄板で押さえるように焼く焼き鳥が有名なんです」


「それも食べてみたいですね」


「夜ならそちらもいいと思いますけど、昼なら焼豚玉子飯のほうが気軽だと思います」


僕たちは今治市内の一軒の店に入った。


昼食どきだからか、人はそれなりに入っていた。


僕は美咲さんにすすめられたとおり、焼豚玉子飯を注文した。


しばらくして、料理が運ばれてきた。


白いご飯の上に、タレで照りの出た焼豚がのっていて、その上に半熟の卵が二つ置かれていた。


美咲さんが言った。


「食べるときは、卵を少し崩して、ご飯と一緒に食べればいいです」


卵の黄身は、箸が触れる前から今にも流れ出しそうに見えた。


僕が箸でそっと触れると、黄身がゆっくり流れた。


一口食べると、まず甘さと塩気が感じられた。


それから少し遅れて、焼豚の香りが立ち上がってきた。


僕には少し独特な香りだった。


けれど、決して嫌な感じではなかった。


これまで自分の中で少しだけ欠けていたものを、そっと埋めてくれるような味だった。


「どうですか」


美咲さんが尋ねた。


「おいしいです」


「お口に合いますか」


「はい。思っていたより、ずっとしっかりした味です」


「よかったです」


美咲さんも匙を手に取った。


僕たちはしばらく、言葉少なに食事をした。


美咲さんが水の入ったコップを置きながら言った。


「こういう時間があってよかった、とも思います」


僕は美咲さんを見た。


「人の名前や場所を追っていると、自分が疲れていることに気づかないときもある気がします」


「そうですね」


気を張ったままだと、人は簡単に消耗してしまう。


こうして少し息を抜ける時間が必要だった。


「だから私は、ときどき今調べている人が何を食べていたのかを考えます」


「何を食べていたのか、ですか」


「はい。そういうことを考えると、記録の中の人が少し近くなる気がするんです」


僕はゆっくりうなずいた。


「そうかもしれませんね」


ただ書類の中に残った名前ではなく、実際に生きて、息をしていた人だったのだということが、少し近くなる気がした。


「ハルさんのお祖父さまの佐伯さんも、手紙を頼んだ日に何かを食べたのでしょうね。それがどんな食事だったのかは、わかりませんけど」


僕はしばらく考えた。


「祖父がどんな顔で手紙を預けて、どうやって食事をしたのか。そもそも食事が喉を通ったのかもわかりません。ちゃんと飲み込むこともできなかったかもしれませんね」


そのとき、美咲さんが慎重に言った。


「そこまでして手紙を届けようとしたのなら……どうして直接会いに行けなかったのでしょう」


僕は向かい側の水のコップを見下ろした。


一つ、思い当たることがあった。


「誓約書のことがあったからではないでしょうか」


「あ……」


美咲さんは、そこで言葉を切った。


僕は慎重に付け加えた。


「正確なことはまだわかりません。ただ、祖父が直接会いに行けば、千代子さんの側にもっと大きな問題が起きると思ったのかもしれません。あるいは……祖父の側にも、直接動けない事情があったのかもしれません」


美咲さんは目を伏せた。


「それで……亞里さんを通して手紙を」


「おそらくは」


それから僕と美咲さんは、あまり話さずに食事を続けた。


食事を終えて店を出ると、午後の光は少し明るくなっていた。


「スキャンが届くのは……たぶん、今日の夜か明日の午前くらいになりそうですね」


僕はスマートフォンを確認したが、母からの返信はなかった。


「それなら……少しだけ寄っていきませんか」


「寄る、ですか」


「来島海峡が見える場所があります。今治まで来たなら、そのまま帰るのは少しもったいないです」


僕は美咲さんを見てから、うなずいた。


「では、お願いします」


美咲さんは車を海のほうへ走らせた。


道はだんだん広くなり、空も大きく開けていった。


遠くに、白い線のようなものが見えた。


車が近づくにつれて、それは少しずつはっきりしてきた。


海の上へ続く大きな橋だった。


美咲さんが言った。


「あちらが来島海峡大橋です」


「大きいですね」


「はい。しまなみ海道の今治側です。尾道から島々を通って、四国へつながる道なんです」


「韓国には、西海大橋という橋があります」


「西海大橋ですか。韓国にも、こういう橋があるんですね」


「はい。長さだけでいえば、たぶん西海大橋のほうが長いと思います。でも、来島海峡大橋は少し違って見えます」


僕は海の上に伸びる白い橋を見つめた。


「島と島のあいだを通りながら、海の上をゆっくり渡っていく道みたいに見えます」


僕は窓の向こうを見ながら言った。


「橋そのものより、そのまわりの海と島が一緒に目に入ってくる感じです」


「では、今から見に行きましょう」


僕たちは来島海峡を見下ろせる場所へ車を走らせた。


展望台のほうへ上がると、強い風を感じた。


海の匂いがした。


目の前には、来島海峡大橋が大きく広がっていた。


長く白い線が海の上を横切り、その下に青い水の道が続いていた。


島々が点々と浮かび、遠くでは一隻の船がゆっくり進んでいた。


美咲さんが手すりの近くに立って言った。


「ここからだと、来島海峡がよく見えるんです」


僕は黙ってうなずいた。


「来島海峡は、潮の流れが速いんです。だから昔は、この海を渡るのも、船を動かすのも簡単ではなかったと思います」


僕は海を見下ろした。


陽の光を受けた波がきらきらと光っていた。


表面は穏やかに見える。けれど、その下には速い潮の流れがあった。


「僕たちが今見ている記録も、そんな感じがします」


美咲さんが僕を見た。


「表から見れば、ただ短くて乾いた一文にすぎないのかもしれません」


僕は海へ視線を戻した。


「でも、その一文の向こうに、人の人生がある。くぐり抜けてきた波みたいなものが、見えないところで動いている気がします。僕たちの目には見えない、激しい時代の流れが」


「激しい時代の流れ……」


美咲さんは、その言葉を小さく繰り返した。


「今の時代なら、スマートフォンのメッセージ一つですぐ連絡がつきます。でも祖父の時代には、手紙を一通送るために、誰かに託さなければならなかったんですね」


美咲さんは何も言わず、海を見ていた。


そして少ししてから、静かに言った。


「その手紙、本当に千代子に届いたのでしょうか」


連絡を取り続けていたはずの二人は、なぜつながることができなかったのだろう。


「わかりません」


僕は正直に言った。


「でも、手帳には『渡し済』と書かれていました」


美咲さんが小さくうなずいた。


「その一行を、信じたいですね」


「僕もです」


風が通り過ぎた。


美咲さんの髪が、少し揺れた。


僕は隣に立つ彼女を見た。


美咲さんが隣にいることに、僕は少し安心していた。


彼女がいなければ、ここまで来ることはできなかっただろう。


美咲さんが僕を振り向いた。


「ハルさん?」


「あ、いえ」


僕は視線をまた海へ戻した。


僕たちはしばらく、黙って海を見ていた。


遠くの橋の上を、車が動いていた。


美咲さんが言った。


「資料が届いたら、すぐに一緒に見ましょう」


「はい。一緒に見てください」


そう言ってから、僕は少し遅れて恥ずかしくなった。


僕はまた海を見た。


「今治の海は、鞆の浦の海とはまた違う姿ですね。尾道で見た海とも違います。でも、全部つながっています」


「そうですね」


橋の向こうへ、海はずっと続いていた。


「僕たちが探している話も、この海みたいにずっと続いている気がします。でも、きっとその果てまでたどり着けます」


美咲さんが橋の向こうの海を見ながら言った。


「海の果てに宝物があるという伝説を思い出しますね」


そして僕を見て、微笑んだ。


「それなら、私たちは今、宝物を探しに行く途中なんですね」

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