第56話 佐伯氏依頼
越智和彦さんが、もう一度僕を見た。
「あなたのお祖父さまの名前は……佐伯だとおっしゃいましたね」
「はい。佐伯春雄です」
美咲さんも、手帳のほうへ視線を落としていた。
越智和彦さんは、手帳をもう少し僕たちのほうへ向けた。
「ここを見てください」
彼の指が、手帳のページの一か所を示した。
そこには、小さな字が数行書かれていた。
数字と品名、金額が続くほかのページとは違って、その部分だけは短いメモのように見えた。
僕の目が、手帳へ動いた。
昭和二十五年四月。
佐伯氏依頼。
そして、その下。
書状一通、女へ渡し済。
今回限り。以後、同様の依頼なき旨、約束取付済。
隣で、美咲さんが小さく息を呑む音がした。
僕はその短い文を、何度も読み返した。
「女……」
美咲さんが小さくつぶやいた。
その女性が誰なのかは書かれていなかったが、僕と美咲さんの頭に浮かんだ名前は同じだったはずだ。
千代子。
越智和彦さんが、僕たちを見ていた。
彼にも説明しなければならなかった。
「最初に僕が見つけたのは、一枚の写真でした」
越智和彦さんは静かに聞いていた。
僕は、これまでのことを短く話した。写真の裏に残っていた「鞆の浦にて/千代子と/昭和十八年秋」という文字、そしてその名前を追ってここまで来たことを。
続いて、美咲さんが言った。
「千代子は、私の祖母です」
越智和彦さんの表情が、少し変わった。
「そうですか」
「はい」
美咲さんの声は静かだった。
「私たちは、その写真がきっかけで出会いました」
越智和彦さんは手帳を見下ろした。
「それなら……この佐伯というのは」
「僕の祖父である可能性が高いです」
越智和彦さんは、小さくうなずいた。
僕は手帳の記録をもう一度見た。
昭和二十五年四月。
朝鮮戦争が始まる直前の時期だった。
「昭和二十五年の春までは……祖父は人づてに、千代子さんかもしれない女性へ手紙を届けようとしていたのだと思います」
美咲さんが手帳を見つめながら尋ねた。
「その手紙……届けられたんですよね」
「手帳には、渡したと書かれています。ただ、返事があったのか、その後も連絡が続いたのかは……まだわかりません」
僕は越智和彦さんに向かって頭を下げた。
「見せてくださって、ありがとうございます」
美咲さんも続けて頭を下げた。
「本当にありがとうございます」
越智和彦さんはしばらく僕たちを見てから、静かに手帳を閉じた。
「今日ご覧になったものは、約束どおり外部には……」
僕はすぐに答えた。
「お約束したとおり、外部に話すことはありません。会社やご親族に迷惑がかかるようなこともしません」
美咲さんも言った。
「私もお約束します」
越智和彦さんはうなずいた。
彼は聖書とメモ、手帳をまたゆっくり整理した。
僕と美咲さんは、越智商事株式会社を出た。
外の光は、さっきより少し明るくなっていた。
けれど、僕の中はむしろ重くなっていた。
美咲さんも、すぐには車のドアを開けなかった。
僕たちは建物の前で、しばらく立っていた。
「いったい……何があったのでしょう。調べれば調べるほど、わからないことが増えていきますね」
美咲さんが言った。
僕は答えられなかった。
代わりに、スマートフォンを取り出した。
韓国の母にメッセージを送らなければならなかった。
指を怪我したと言っていたことを思い出し、最初の文は自然とそうなった。
[無理しないでください。指が大丈夫なときに、ゆっくりで大丈夫です]
少し考えてから、続けて書いた。
[次のスキャンは、一冊目を多めに、二冊目も少し混ぜて送ってください。できれば二対一くらいの割合でお願いします]
メッセージを送ってからも、僕はすぐに画面を消すことができなかった。
韓国から届いていた会社のメッセージも、同じ画面の中にあった。
けれど、僕はそのメッセージを開き直さなかった。
画面を消した。
美咲さんが僕を見ていた。
「お母さまに連絡されたんですか」
「はい」
「資料を、さらにお願いしたんですね」
僕はうなずいた。
「一冊目のノートと二冊目のノートを、合わせて見なければならないと思います」
「合わせて、ですか」
「はい」
僕はゆっくり説明した。
「一冊目のノートは、資料と記録が中心です。金額、名前、移動、処理内容のようなものが多いです。反対に、二冊目のノートは日記に近いものです」
美咲さんは静かに聞いていた。
「資料だけでは、出来事は追えます。でも、気持ちは見えません。日記だけでは、気持ちは見えても、実際に何があったのかまでは確かめにくいんです」
僕は、さっき見た手帳を思い出した。
佐伯氏依頼。
書状一通、女へ渡し済。
それだけでは、十分ではなかった。
「二冊を合わせて見なければなりません。まず一冊目のノートの資料で当時の状況をつかんで、二冊目のノートの日記と比べる必要があると思います」
「それは、そうですね」
「とくに一九四八年以降、そして一九五〇年前後の資料が重要になると思います。祖父がなぜ日本へ戻らなかったのか、なぜ韓国の名前で生きることになったのかは、その時期に残っている気がします」
そのとき、美咲さんが慎重に尋ねた。
「ハルさん」
「はい」
「二冊を見比べながら時期を合わせていくなら、かなり時間がかかるんじゃありませんか」
彼女は、僕が会社のことで無理をしているのではないかと心配しているようだった。
僕はすぐには答えられなかった。
その言葉は正しかった。
けれどここで止まれば、ここまで追ってきた道が、また途切れてしまう気がした。
僕はしばらく美咲さんを見た。
以前、美咲さんが言っていた。
気になることは、確かめないと気が済まない人間だと。
それはただ、人の性格を言った言葉ではなかった。
残された者に必要な態度だった。
僕は答えた。
「大丈夫です」
美咲さんが僕を見た。
「僕も、美咲さんと同じで、気になることは確かめないと気が済まない人間です」
美咲さんは少し目を見開いた。
それから、とても小さく笑った。
僕はもう一度、越智商事株式会社の建物を振り返った。
古い箱は、また閉じられた。
けれど、その中から出てきた二文字は、まだ僕の中で閉じられていなかった。
佐伯。
その二文字が、僕をまた祖父の時間の中へ引き戻していた。




