第55話 挟まれていた祈り
越智和彦さんが、慎重に聖書へ手を伸ばした。
「私がもう少し……見てもよろしいでしょうか」
その言葉は、僕たちに尋ねているようでもあり、自分自身に言っているようでもあった。
美咲さんが静かにうなずいた。
「はい」
越智和彦さんが聖書をめくり始めた。
薄い紙が、かさりと音を立てた。
聖書の前のほうには、それ以上、目立つ書き込みはなかった。
彼はさらに何枚かページをめくった。
そして、真ん中あたりで手を止めた。
「これは……」
ページのあいだに、小さな紙が一枚挟まっていた。
古くなって、黄色く変わった紙だった。
一度半分に折られた跡があり、角は少し擦り切れていた。
越智和彦さんは少し迷ってから、その紙を慎重に取り出した。
なめらかにつながる筆記体が書かれていた。
美咲さんが少し身を乗り出した。
「英語……のようですね」
越智和彦さんが言った。
「この紙も、以前に見たことはあります。ですが……内容は知りませんでした」
「翻訳してみてもよろしいでしょうか」
僕は慎重に尋ねた。
そう言ってから、すぐに付け加えた。
「写真として保存するわけではありません。画面に映して、文字を読み取るだけです。画面は越智さんにも見えるようにします」
越智和彦さんの目が、しばらく僕のスマートフォンへ向いた。
彼は少し迷ってから言った。
「保存しないのなら……」
「画面をこちらにも見せてください」
「はい」
僕は翻訳アプリを開いた。
カメラの画面は立ち上がったが、撮影ボタンは押さなかった。
画面に映った文字の上を、認識の印がゆっくり動いた。
越智和彦さんにも見えるように、スマートフォンの角度を少し変えた。
美咲さんも一緒に画面をのぞき込んだ。
けれど、結果はすぐには出なかった。
Lord、husband、children、business、peace。
そういったいくつかの単語だけが、拾われては消えた。
僕はメモの原文と、画面に拾われた単語を見比べた。
「一度では、正確に読めないようです」
僕はゆっくり単語を合わせていった。
最初の数行は、それほど難しくなかった。
「祈りの文ですね」
僕はその部分を、慎重に日本語へ移した。
「夫と子どもたち、それから仕事のための祈りのようです」
越智和彦さんは、何も言わずに聞いていた。
僕は続けて読んだ。
「家族が幸せでありますように。夫が外でけがをしませんように。子どもたちが病気になりませんように。今日も必要なものを得られますように……そういう内容です」
美咲さんが、ゆっくり息を吐いた。
「とても具体的な祈りですね」
「韓国の教会では、家族の無事や仕事、生計のことを、かなり具体的に祈ることがあります」
僕は少し言葉を止めてから、付け加えた。
「福を願う祈りのように見えるかもしれませんが……それだけ生活に近い祈りでもあります」
美咲さんが小さな声で言った。
「どこでも、幸せを願うのは同じでしょうね」
僕はまた画面を見た。
アプリは、まだいくつかの単語を妙な形で読んでいた。
僕は原文を目で追いながら、少しずつ文の意味を合わせていった。
そのうち、ある行で手が止まった。
画面に拾われる単語が変わった。
Pyongyang. parents. Jae-hyun. Seung-min.
そしてその横に、かすれてはいたが読み取れる単語があった。
Communists.
会議室の空気が、少し変わった。
僕はメモの最後のほうをもう一度見た。
インクは薄くなっていたが、文の意味はある程度つかめた。
「共産党による支配が早く終わり、平壌の両親と、Jae-hyun、Seung-minも、どうか無事でありますように」
僕はゆっくり読んだ。
「そう書かれているように見えます」
「平壌……」
美咲さんが小さくつぶやいた。
僕はうなずいた。
「当時、平壌は朝鮮の中でもキリスト教がとても盛んな都市でした」
僕の声は慎重になった。
今、僕が話しているのは、歴史の話だった。
けれど同時に、この聖書の持ち主が経験したかもしれないことでもあった。
「ですが、三十八度線の北側が共産化されていく中で、キリスト教徒たちは強い圧迫を受けました。教会も、信者も、家族も……多くの人が、家族の消息を知ることもできなくなったはずです」
越智和彦さんが、ゆっくり口を開いた。
「母に……平壌の家族がいたなどとは、聞いたことがありません」
僕はすぐには答えなかった。
もう一度、メモを見た。
「この二つの名前は、朝鮮の名前に見えます」
美咲さんが尋ねた。
「ご兄弟でしょうか」
「そうかもしれませんし、近い親族かもしれません。正確なことはわかりません」
僕は慎重に言葉を選んだ。
「鄭雅利さん自身が平壌に住んでいたとは限りません。基督教系女学校に通っていたのなら、京城や釜山にいた可能性もあります」
僕はメモの最後の行をまた見た。
「けれど、少なくとも家族は平壌にいたのだと思います」
僕は言葉を続けた。
「三十八度線の北側が共産化されていく中で、平壌にいる家族の消息が分からなくなった。そういう状況が……越智正雄さんとともに日本へ渡る決心につながったのかもしれません」
言い終えてから、僕はすぐに付け加えた。
「もちろん、推測です」
会議室は、また静かになった。
越智和彦さんは、聖書とメモをもう一度見た。
そして、とても慎重に、メモをもと挟まっていたページのあいだへ戻した。
その手つきは、最初よりもさらにゆっくりしていた。
「これも……捨てなかったのですね」
生きているのか死んでいるのかもわからない、遠く離れた家族のために、別の国の家の中で捧げられた祈りがあった。
越智亞里として生きた女性が、最後まで消せなかった世界があった。
越智和彦さんは、聖書をまた閉じた。
会議室の空気は、少し重くなっていた。
彼はしばらく箱の中を見つめてから、横に置いていた小さな手帳をもう一度手に取った。
数字がびっしりと書かれた、商売を始めたころの手帳だった。
彼は無意識のように、ページをめくった。
そのとき、越智和彦さんの手が止まった。
「……金さん」
彼が僕を呼んだ。
僕は顔を上げた。
越智和彦さんは、手帳の片隅を見ていた。
「あなたのお祖父さまの名前は……佐伯だとおっしゃいましたね」
彼が、手帳を僕のほうへ向けた。
そのページの片隅に、小さな文字があった。
佐伯。




