第54話 聖書の中の名前
スマートフォンのアラームが鳴った。
僕は手を伸ばして、アラームを止めた。
カーテンの隙間から入ってくる光は、まだ薄かった。
習慣のように、スマートフォンを手に取った。
昨夜確認したカカオトークを、もう一度読んだ。
少し気が重くなった。
会社では、うまくやっているほうだった。
真面目で、細かく仕事をこなし、評価も悪くなかった。
けれどそのぶん、業務の割り振りでは、ほかの人より多くの仕事を任されることもあった。
僕がいないから、今になって不便を感じているのだろうか。
そんなことも頭に浮かんだ。
ゆっくり起き上がり、顔を洗ってから、もう一度スマートフォンのカレンダーを見た。
けれどすぐに、画面を閉じた。
今は、帰る日を考えるときではなかった。
◆◆◆
美咲さんは、約束の時間より少し早く車を止めた。
越智商事株式会社。
昨日見た看板が、また目の前にあった。
僕と美咲さんは、会社の中へ入った。
昨日と同じ社員が僕たちに気づき、小さな会議室へ案内してくれた。
しばらくして、越智和彦さんが入ってきた。
美咲さんが先に頭を下げた。
「お時間をいただき、ありがとうございます」
僕も続けて挨拶した。
「ありがとうございます」
越智和彦さんは、座るように手で示した。
僕は彼の手を見た。
昨日話していた箱は、まだなかった。
テーブルの向かい側に座ってから、越智和彦さんがゆっくり口を開いた。
「昨日も申し上げましたが」
彼の視線は、僕と美咲さんのあいだを行き来した。
「母のことを外で話されると困ります」
美咲さんは静かにうなずいた。
「はい」
続いて、僕も「承知しています」と答えた。
越智和彦さんは、言葉を選ぶようにしばらく止まった。
「箱の中のものについては、写真は撮らないでください。メモも、必要なことだけにしてください」
「わかりました」
美咲さんが答え、僕もすぐに同じように答えた。
越智和彦さんは席を立った。
「少しお待ちください」
彼が出ていったあと、会議室にはまた沈黙が降りた。
美咲さんは、テーブルの上に置いた手を軽く重ねた。
「写真が撮れないと、あとで確認するのが難しくなりますね」
「残念ですが、仕方がないと思います」
しばらくして、越智和彦さんが戻ってきた。
その手には、両手で抱えられるほどの古い木箱があった。
色はだいぶ褪せていた。角はすり減り、金具は黒ずんでいた。
越智和彦さんは、箱をテーブルの上に慎重に置いた。
「父が亡くなったあと、家にあったものを会社のほうへ移しておいたものです。この箱には、母のものが入っていると聞いています」
彼は箱のふたを開けた。
古い紙の匂いと、少し湿った木の匂いが混じって立ち上がった。
箱の中のものは、整理されていた。
最初に見えたのは、白黒写真だった。
越智和彦さんはそのうち一枚を取り、テーブルの上に置いた。
「おそらく、創業初期のものです」
写真の中には、若い男女が立っていた。
「この方が?」
「私の両親です」
越智正雄と越智亞里。
彼女はカメラを正面から見てはいなかった。視線が少し横へ向いていた。
後ろには小さな倉庫のような建物と、荷物を積んだ手押し車が見えた。
別の写真には、子どもたちが写っていた。
一人は幼稚園児くらいに見え、もう一人は少し大きかった。
女性が、子どもの肩に手を置いていた。
写真の下のほうには薄く文字があったが、正確な年は読みにくかった。
箱の中には、折られた紙もあった。
越智和彦さんがそれを広げると、たどたどしい字が現れた。
お母さんへ。
短い手紙だった。子どもが書いた字だった。
「私が幼いころ、母に書いた手紙です」
越智和彦さんはその手紙を折り、横に置いた。
今度は、小さな手帳だった。
中には数字がびっしりと書かれていた。
日付と品名、金額、入ってきた金と出ていった金のようなものだった。
「商売を始めたころ、母が使っていた手帳だと思います」
彼は少し言葉を止めた。
「会社の沿革には詳しく出ていませんが……会社の発展において、母は大きな役割を果たしました」
その言葉には、小さな苦さがあった。
僕は、あえて何も答えなかった。
答えれば、かえって今の会話を軽くしてしまう気がした。
箱のいちばん奥には、布に包まれたものがあった。
色褪せた布だった。
小さな布切れを継ぎ合わせたような模様があった。赤もあり、藍色もあったが、どれも古くなって淡くなっていた。
越智和彦さんは、それを慎重にほどいた。
「母が包んでおいたもののようです」
僕は、その布が何かに似ていることに気づいた。
「ハルさん?」
美咲さんが尋ねた。
僕は布を近くで見た。
「これは……」
「はい?」
「韓国のポジャギ、あるいはチョガッポに似ています」
「ポジャギですか」
越智和彦さんが聞き返した。
「物を包む布です。日本の風呂敷に近いものですが、こうして小さな布を継ぎ合わせたものは、韓国のものによく見られます」
越智和彦さんは布を見下ろした。
「私は、ただの古い布だと思っていました」
布の中には、本があった。
黒い表紙の、擦り切れた小さな本だった。
表紙には金色の文字がかすかに残っていた。
Holy Bible.
美咲さんが小さく言った。
「聖書……ですね」
「英語の聖書のようです」
越智和彦さんが本を見つめた。
「母が持っていたものです」
「開いてもよろしいでしょうか」
「はい」
越智和彦さんが短く答えた。
僕は本を慎重に受け取った。
表紙は手に触れると、やわらかくたわんだ。古い紙の匂いがして、ページの端は黄色く変わっていた。
僕は最初のページをめくった。
薄い紙が、指先に引っかかった。
何枚かめくると、内側の表紙の上のほうに小さな文字があった。
鉛筆なのか、古いインクなのかはわからなかった。
あまりに小さく、見過ごしてしまいそうな文字だった。
けれど、僕の目はそこで止まった。
Chung A-ri
僕は、その文字から目を離せなかった。
美咲さんが隣で尋ねた。
「これは?」
「名前です」
越智和彦さんの手が止まった。
「名前?」
「はい」
僕は聖書をテーブルの上に置き、指先が直接触れないように、名前から少し離れたところを示した。
「Chung A-ri。韓国語の音で読むと、チョン・アリです。僕たちが持ってきた資料にあった名前と同じです」
越智和彦さんは黙っていた。
おそらく彼も、以前その書き込みを見たことはあったのだろう。
ただ、そこまで深く考えたことはなかったのかもしれない。
「この文字があることは、知っていました」
「前にも見たことがあります」
僕の推測は当たっていた。
越智和彦さんの言葉が続いた。
「ですが、名前だとは思いませんでした。ただの英語の書き込みのようなものだと思っていました……」
僕は、ゆっくり言葉を出した。
「僕たちは、ただ古い記録の痕跡をたどって、ここまで来ただけです。越智さんにとって、お母さまが越智亞里だったこともわかっています。無理に、今になって別の名前を言おうとしているわけではありません」
越智和彦さんは僕を見た。
警戒はまだあったが、昨日よりは少し落ち着いていた。
「お約束したとおり、今回のことを外部に話すことはありません」
美咲さんも頭を下げた。
「外部にむやみに話すことはしません」
越智和彦さんは、わずかにうなずいた。
彼は聖書の小さな文字をもう一度見た。
「それが名前なのだとしても、母がなぜここに書いたのかは分かりません」
彼は手を伸ばし、聖書の表紙をとても慎重に閉じた。
「ですが……これを捨てはしなかったのですね」
その言葉が、会議室の中に静かに残った。
古い聖書の内側に残っていた、小さなアルファベットの一行。
Chung A-ri.
越智亞里と呼ばれて生きた女性が、消さずに残していた名前だった。




