第53話 古い箱
「藤井さんですね」
電話の向こうから聞こえた声は、昼間よりも少し硬かった。
美咲さんは運転席に座ったまま、しばらく言葉を止めた。
「はい、藤井です」
美咲さんが、もう一度答えた。
「今日の件です」
「母のことを……あまり外で話されると困ります」
美咲さんは、何と答えればいいのか迷っているようだった。
越智和彦さんの言葉が続いた。
「会社もありますし、親戚もいます」
「今になって名前のことで話が大きくなると、こちらとしては困るのです」
僕も美咲さんも、その言葉の意味を理解するのに時間はかからなかった。
美咲さんは短く息を吸った。
「はい。その点はわかります」
「それから」
電話の向こうの声が、一度途切れた。
「もし金銭的な話でしたら、こちらで応じられることはありません」
僕はその言葉に、思わず顔を上げた。
お金。
その言葉が、急に車内の空気を変えた。
美咲さんもしばらく言葉を失っていた。
けれどすぐに、落ち着いた声で答えた。
「そういう意味ではありません」
美咲さんの声は低かった。
「お金を求めるために伺ったのではありません。今日、突然お訪ねしてご迷惑をおかけしたのなら、本当に申し訳ありません」
電話の向こうからは、返事がなかった。
美咲さんは続けた。
「私たちは資料を確認している途中で、越智正雄さんと越智亞里さんのお名前を見ました。そして、その資料の担当欄に、ハルさんのお祖父さまの名前がありました。ですから、佐伯さんについて何か情報があるのではないかと思い、伺ったんです」
美咲さんは、少し僕を見た。
僕は、電話を代わってほしいという仕草をした。
「今、ハルさんが隣にいます。少し代わってもよろしいでしょうか」
短い沈黙があった。
越智和彦さんが言った。
「……はい」
美咲さんは、スマートフォンを僕に渡した。
「金ハルです。今日は突然伺って、申し訳ありませんでした」
「いえ」
「僕は韓国人の金ハルです。ですが、祖父は佐伯春雄という日本人でした。だから知りたいと思いました。祖父が何を経験したのか。それで、関係のある手がかりが見えれば、そこを追っています」
電話の向こうで、越智和彦さんがごく小さく息を吐く音が聞こえた。
「母の名前は越智亞里です」
「私たちにとっては、その名前が母の名前です。ほかの名前は聞いたことがありません」
「はい」
「私たちは、私たちなりに母を弔い、見送りました」
「それなのに今になって、母の名前に関して妙な話が出てくるのは望んでいません」
僕は頭を下げた。
相手には見えないとわかっていても、そうしていた。
「ご迷惑をおかけするつもりはありません。それに、お母さまがこの地で生きてこられた時間を否定するつもりもありません」
僕は慎重に言葉を選んだ。
「ただ、鄭雅利という名前と越智亞里という名前のあいだに、僕の祖父、佐伯の名前が残っていました。僕は、祖父について何か知る手がかりがあるのではないかと思い、ここまで来ました。決して、ご迷惑をおかけするつもりではありませんでした」
電話の向こうが静かになった。
その沈黙は、短くなかった。
「……母のものが、少し残っています」
僕は息を止めた。
何か手がかりが見えた気がした。
「古い箱がひとつです。古い本や写真のようなものが入っていたと思います」
「箱ですか」
「はい。私も何度か見たことはありますが、どういう意味のあるものなのかはわかりません」
「見せていただくことはできますか」
「明日の午前に来られますか」
僕は美咲さんを見た。
美咲さんは小さくうなずいた。
「伺えます」
「では、明日の午前十時に来てください」
「はい。ありがとうございます」
「ただし」
越智和彦さんの声が、また固くなった。
「今回のことを外で話さないという条件です」
「承知しました。ご迷惑にならないようにします」
通話は、長くは続かなかった。
僕がスマートフォンを美咲さんに返すと、美咲さんは画面を一度見て、静かに消した。
車内には、しばらく何の言葉もなかった。
先に口を開いたのは、美咲さんだった。
「お金を要求しに来たと思われるとは思いませんでした」
僕は少し考えてから答えた。
「あの方の立場では、そう考えることもあるのかもしれません」
「そうでしょうか」
「ある程度の規模の会社ですから、いろいろな人を相手にしてきたのでしょう。その中には、よくない意図で近づいてきた人もいたのかもしれません」
「それでも、少し悔しいです」
美咲さんは、ハンドルを握る自分の手を見下ろした。
お金目当てで近づいた人間のように思われたことが、かなり不快だったように見えた。
「それほど会社の評判に関わる危険なことだと思ったのでしょうか。そもそも、お母さまの名前は会社紹介にも残っていないのに」
美咲さんは、事業を支えていたはずの鄭雅利、越智亞里のことが、きちんと伝わっていないことのほうに、より腹を立てているようだった。
しばらくして、美咲さんはエンジンをかけた。
「ひとまず戻りましょう」
「はい」
少しずつ、日が島々の向こうへ傾いていた。
昼間に通った道のはずなのに、今見ると別の道のように感じられた。
「明日の午前十時なら……」
美咲さんが言った。
「朝早く出ないといけませんね」
「大丈夫ですか」
「大丈夫です」
少しして、美咲さんが僕に尋ねた。
「日本には、いつまでいられるんですか」
「まだ時間はあります」
そのとき、ポケットの中のスマートフォンが短く鳴った。
会社の同僚からのカカオトークだった。
[日本旅行、楽しんでる?笑]
[チーム長が君だけ待ってるよ]
[休暇、ちょっと長く取りすぎじゃない?]
[課長昇進を考えるなら、空気読まないと。笑]
文の終わりには、笑いの印が付いていた。
けれど、冗談のように見えて、冗談ではないことはわかっていた。
特に最後の一文が、目に残った。
これまで使ってこなかった休暇をまとめて、長めの日程を取った。
法律上は使える僕の権利だったが、現実は違っていた。
「会社ですか」
美咲さんが尋ねた。
「はい」
僕はスマートフォンのカレンダーを開いた。
数日あれば十分だと思っていた。
写真の場所を見て、資料を少し確認して帰ればいいと思っていた。
けれど、もうそうではなかった。
鞆の浦から始まった道は、尾道へつながり、因島と土生を過ぎて、今治まで来た。
そして明日、また今治へ行かなければならない。
越智和彦さんが言った箱。
それを確認しなければならなかった。
「会社のお仕事、かなり忙しいんですか」
美咲さんが慎重に尋ねた。
僕の表情に少し出ていたのかもしれない。
僕はスマートフォンの画面を消した。
「そうみたいです」
「帰らないといけませんか」
その問いには、すぐには答えられなかった。
車は、少しずつ光の沈んでいく道を走っていた。
「まだ大丈夫です」
そう言ったものの、気持ちは複雑だった。
僕が日本にいられる時間は、島々の向こうへ消えていく光のように、少しずつ短くなっていた。




