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鞆の浦にて、千代子と ――海を渡った写真と、二つの名前――  作者: catseye
第二部 鞆の海を忘れられなかった男
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第52話 聞いたことのない名前

美咲さんがスマートフォンを確認した。


「まだ連絡はありませんね」


「待つしかなさそうですね」


「車で待ちましょうか」


美咲さんの提案で、僕は彼女と一緒に車へ向かった。


「少し、急な話ではありますよね」


「そうだと思います」


僕が車に乗ろうとした瞬間、美咲さんのスマートフォンが鳴った。


美咲さんは画面を見て、すぐに電話に出た。


「はい、藤井です」


短い沈黙が続いた。


僕は車のドアを持ったまま、美咲さんを見た。


美咲さんは少し頭を下げながら言った。


「はい。はい、ありがとうございます」


彼女の表情が少し変わった。


驚きと慎重さが、同時に混じった顔だった。


「分かりました。すぐに伺います」


電話を切ってから、美咲さんは僕を見た。


表情が明るかった。


「さっきの事務所の方からでした。越智和彦さんが、会ってくださるそうです」


「今ですか」


「はい。短い時間なら大丈夫だそうです。この近くの事務所まで来てほしいと」


「ご自宅ではなく、事務所ですか」


「はい。会社の事務所だそうです」


「行きましょう」


車は今治の市街地のほうへ向かった。


住宅地と小さな倉庫、新しく建てられた店舗が混じっていた。


美咲さんがナビを確認しながら言った。


「ここから遠くありません」


車が止まったのは、五階建てのビルの前だった。


建物は少し古く見えたが、寂れた印象ではなかった。


修繕を重ねながら、ずっと使い続けてきたような感じがあった。


「あそこを見てください」


僕が顔を向けると、会社名の入った看板があった。


越智商事株式会社。


「それなりに規模のある会社のようですね」


建物の横には小さな倉庫が付いていて、奥の駐車場には白い納品車が何台か止まっていた。


車を降り、美咲さんと一緒に建物の中へ入った。


廊下には、地域の行事のポスターが貼られていた。


「こちらで後援している行事みたいですね」


反対側を見ると、地域の商工会から受けた感謝状や表彰状のようなものが掛かっていた。


そのとき、社員らしい中年の女性が出てきて、僕と美咲さんを迎えた。


「藤井様ですか」


「はい。お電話をいただいた藤井です」


女性は僕を一度見てから、また美咲さんに頭を下げた。


「相談役がお待ちです」


小さな応接室へ案内された。


僕は視線を動かし、周囲を見回した。


部屋の中には、古い会社の写真が掛かっていた。


美咲さんも、興味深そうにそれを見ていた。


「あの写真の中に、亞里さんがいらっしゃるでしょうか」


白黒写真の中には、小さなトラックと倉庫が写っていた。


別の写真には、社員たちが並んで立っていた。


しばらくして、扉が開き、老人が入ってきた。


背は高くなく、腰は少し曲がっていたが、足取りは慎重で、所作はきちんとしていた。


僕と美咲さんは立ち上がって迎えた。


「越智和彦と申します」


老人は美咲さんに名刺を差し出した。


美咲さんは両手で受け取った。


「藤井美咲です。本日は急にお願いして申し訳ありません」


続いて、老人は僕にも一枚差し出した。


僕も美咲さんと同じように、両手で受け取った。


白い名刺だった。


越智商事株式会社。


相談役 越智和彦。


「金ハルと申します。韓国から来ました」


越智和彦の視線が、そこで少し止まった。


「韓国から……」


彼はそれだけ言って、それ以上は尋ねなかった。


代わりに、美咲さんへ向き直り、すぐに本題へ入った。


「うちの両親の、朝鮮側の記録を見たと伺いましたが」


「はい」


美咲さんが答えた。


「戦後資料を調べる中で、越智正雄さんと越智亞里さんに関する記録を見つけました。尾道と因島を経て、今治へ向かった荷物の記録もありました」


「そんなものまで残っているのですか」


「完全な記録ではありません。抜けているものも多いのですが、ここまでつながる痕跡がありました。それで、越智正雄さんと越智亞里さんについてのお話を伺いたく、こちらまで来ました」


美咲さんは慎重に言った。


越智和彦は、ゆっくりとうなずいた。


越智和彦の顔には、誇りか、尊敬のようなものがあった。


「父が最初に商売を始めたころは、倉庫ひとつまともになかったと聞いています。物を運び、受け取り、頼まれたものを処理して……そういうところから始めたそうです」


彼は部屋に掛けられた白黒写真のほうを見た。


「母も、一緒に働いていました」


美咲さんが静かに尋ねた。


「お母さまもですか」


「はい」


越智和彦は続けた。


「母は、人と接するのがうまかったそうです。話し方が柔らかく、相手が何を望んでいるのかを早く察したと聞いています。帳簿も正確で、計算も早かった」


彼は指先で、テーブルの上を軽く押さえた。


「父が外で取引を作って帰ってくると、母が中でそれを整理しました。特に、お金がどこから入って、どこへ出ていくべきか、誰に先に送るべきか、そういうことをよく見ていたそうです」


父は営業を、母は経営を。


「それから、父が朝鮮について何か短く話したことがあるとすれば、不満くらいでしょうね」


「不満ですか」


「あのころ、金をきちんと回収できなかったと。受け取るべきものも受け取れず、そのことについては、あまりまともに話したことがなかったようです。そのとき関わっていた朝鮮人……」


言葉が、そこで止まった。


ほんの短い沈黙だった。


けれど、部屋の空気が変わった。


美咲さんの表情が固くなった。


彼女は何か言おうとして、唇を開いた。


けれど僕は、小さく手を動かした。


美咲さんが僕を見た。


落ち着いてください。


僕は視線で、美咲さんを止めた。


今は、それより先に聞かなければならないことがあった。


越智和彦は、自分の言葉がどう聞こえたのかに気づいたように、軽く咳払いをした。


「とにかく、難しい時代だったということです」


彼はそうまとめた。


「それで、伺いましょう。いったい、どんな記録が朝鮮に残っていたのですか」


越智和彦が静かに尋ねた。


「お母さまが、朝鮮出身だったというお話は、聞かれていませんか」


「母は朝鮮で生まれた日本人、越智亞里です。そのことを聞いているのですか」


「私たちが見つけた資料には、鄭雅利という名前の女性がいました」


美咲さんは、慎重に言葉を選んだ。


「資料に出てくる鄭雅利さんは、基督教系女学校出で、日本語会話可、目的地 今治方面と記されていました。そして、同伴予定者 日本人男性とも書かれていました」


「それで?」


「鄭雅利さんに関する別の資料には、越智亞里という名前が残っていました」


美咲さんは一度息を整え、言葉を続けた。


「私たちは、その二つの名前が同じ方を指している可能性が高いと見ています」


越智和彦は、そこでようやく顔を上げた。


「可能性、ですか……」


「はい。断定しようとしているわけではありません。だからこそ、直接お尋ねしたかったんです」


「証拠は」


僕は鞄から書類を取り出した。


念のため、該当するスキャン画像を印刷しておいたものだった。


僕はそれを、テーブルの上に慎重に置いた。


越智和彦の視線が、書類のあいだを移っていった。


彼は、鄭雅利という文字の前で一度止まった。


けれど、すぐに美咲さんを見て言った。


「鄭雅利という名前は、聞いたことがありません。母は越智亞里でした」


越智和彦は、警戒した表情になった。


このままでは、話がそこで止まってしまいそうだった。


僕が口を開くしかなかった。


「その資料の担当欄に、僕の祖父の名前が残っていました」


越智和彦が僕を見た。


「祖父?」


「はい。今ご覧になっている書類の下のほう、こちらに書かれている佐伯春雄です」


「佐伯という方が……金さんの祖父なのですか」


「はい」


越智和彦は、不思議そうな表情をしていた。


僕は少し息を整えた。


「僕の祖父は、日本人でした」


越智和彦は黙って僕を見つめた。


「けれど戦後、朝鮮、今の韓国に残ることになりました。その後の事情は、僕もまだ確認している途中です」


「日本人が、朝鮮に残った……」


越智和彦は独り言のように言った。


「そういう人もいたのですね」


「はい。そして、僕の祖父の名前が担当欄に残っていたので、僕もこの資料を追ってここまで来ました」


越智和彦は、それ以上は尋ねなかった。


美咲さんが、慎重に話題を変えた。


「お墓を拝見しました」


「越智家の墓ですか」


「はい。亞里さんのお名前の横に、小さな十字架がありました」


「母は、祈る人でした」


「家の中で大きく表に出すことはありませんでした。けれど、時々ひとりで手を組んでいました。幼い私は、それが何なのかよくわかりませんでした」


「あとになって、それがキリスト教の祈りなのだと知りました」


「葬儀のとき、その印を入れてほしいと言ったのは……たぶん母の意思だったのだと思います。父も反対しなかったと聞いています」


美咲さんが、慎重に言った。


「鄭雅利さんは、基督教系女学校出です。キリスト教徒だった可能性が高いと思います」


美咲さんは、さらに言葉を続けようとして止まった。


越智和彦が先に言った。


「母は、日本人の越智亞里です」


その声は、また固くなっていた。


「今になって、母について妙な話を聞きたいとは思いません」


「妙な話にするつもりはありません」


美咲さんが静かに言った。


「私たちは、ただ残っている資料を確かめたいだけです。佐伯、つまり金ハルさんのお祖父さまの痕跡を探す中で、ここまで来ました」


しばらくして、越智和彦が先に立ち上がった。


「今日は、ここまでにしてください」


「はい。お時間をいただき、ありがとうございました」


美咲さんと僕も、それに合わせて立ち上がった。


扉のほうへ向かう前に、美咲さんは鞄から小さなメモを取り出し、自分の名前と携帯電話の番号を書いた。


「もし後日、何か思い出されることがありましたら、ご連絡いただけますでしょうか」


越智和彦は、すぐには受け取らなかった。


「思い出すことがあるからといって、すべて話せるわけではありません」


「はい。承知しています」


「受け取るだけなら、受け取っておきます」


彼はメモをゆっくり受け取り、内ポケットに入れた。


そうして、僕と美咲さんは応接室を出た。


会社の外に出ると、午後の光は少し弱くなっていた。


美咲さんは、エンジンをかける前にスマートフォンを取り出した。


「会社名を少し検索してみます」


「はい」


検索結果はすぐに出た。


越智商事株式会社。


今治地域の運送・納品業者。


創業は昭和二十年代後半。


はじめは小規模な貨物取扱と納品代行を中心に開始。


高度成長期に、地域の工場との取引を広げた。


その後、倉庫業と事務用品の納品、運送管理へ事業を拡大。


創業者。


越智正雄。


僕は画面を見つめた。


鄭雅利という名前はなかった。


越智亞里という名前も、その画面にはなかった。


創業者紹介にあるのは、越智正雄だけだった。


美咲さんは画面を下へ動かして、止まった。


「ここ、創業七十周年の記事もありますね」


美咲さんが読み始めた。


「地域の小さな納品業から出発し、戦後今治の産業成長とともに歩んできた会社……」


その記事にも、越智亞里の名前はなかった。


おおよその会社情報を確認したあと、僕は美咲さんとまた話し始めた。


「悪い方ではないように見えました」


美咲さんが言った。


エンジンをかけていない車内は静かだった。


「はい」


僕は名刺を指先で触りながら答えた。


「お母さまを守りたいのでしょうね」


「はい。でも、何から守ろうとしているのかは……まだわかりません」


「過去でしょうか」


「たぶん」


「出発しましょう」


僕は帰りの車の中で、外の景色を見ていた。


少しずつ日が傾いていた。


それでも、暗くなる前には宿に着けそうだった。


そのとき、美咲さんの携帯電話が鳴った。


美咲さんは運転中だったので、車をいったん路肩の安全な場所に止めた。


美咲さんが電話に出た。


「はい、藤井です」


受話器の向こうから、低く沈んだ老人の声が聞こえた。


「藤井さんですね」


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