第51話 名前の横の十字架
「思っていたほど、遠くはないんですね」
僕は今治までかなり時間がかかるのではないかと心配していたが、何時間もかかるわけではなかった。
「疲れていませんか」
「僕は大丈夫です。むしろ美咲さんが、僕のせいで無理をしているようで申し訳ないです」
「いいえ。私は本当に、あのお二人がどうなったのか気になっているんです。それに、私は気になることを放っておけない性格なので」
美咲さんの言葉に、僕は笑みを浮かべた。
本当にありがたかった。
彼女の助けがなければ、ここまでたどり着くことはできなかったはずだ。
「海の形が、ずっと変わっていきますね」
島をひとつ越え、また次の島へ渡っていくことは、僕にとって少し不思議な経験だった。
景色を眺めているだけで、退屈することはなかった。
「島と陸をつないでくれる橋がなかったら、かなり不便だったでしょうね」
「そうですね」
今治に近づくほど、海はさらに広がっていった。
島と島のあいだの水路が開け、橋が見えた。
「あそこを見てください。あれが来島海峡大橋です」
「大きいですね」
「あの橋を渡れば、ほとんど今治です」
僕は橋の向こうの町を見た。
「あのお二人の痕跡が、見つかるといいですね」
車はまっすぐ伸びる来島海峡大橋を渡り、今治に着いた。
今回も、郷土資料を調べられる場所へ向かった。
「申し訳ありません。そういった資料は、ないかもしれませんね」
担当者の返事は、これまでの場所と大きく変わらなかった。
けれど今治のほうには、尾道や因島よりも、地域に住んでいた人たちの痕跡が少し残っていた。
「一度、こちらを確認してみてはいかがでしょうか」
担当者が、厚い書類を持ってきた。
「墓地台帳、終戦直後の住所整理表……はい。一度、こちらを探してみます。ありがとうございます」
美咲さんは担当者に礼を言った。
「名前を一つずつ確認してみましょう」
彼女の提案で、僕は書類綴りを調べ始めた。
資料を確認し始めてから、十五分ほど経ったころだっただろうか。
美咲さんの声が聞こえた。
「ハルさん」
美咲さんが指していたのは、墓地台帳の一行だった。
越智家墓。
管理番号と、その下に小さく書かれた名前。
越智正雄、越智亞里。
ようやく見つけた。
「場所を聞いてみます」
美咲さんが担当者のところへ行き、丁寧に尋ねた。
「墓地は、ここからそれほど離れていません。ただ、静かにお願いします」
「はい。もちろんです」
そこを出て、車に乗った。
車は今治の市街を通り、少し静かな場所へ向かった。
道沿いには新しい建物と古い家が混じっていて、遠くに今治城が見えた。
ほどなくして、墓地に着いた。
僕が映画やドラマで見たことのある、日本の墓地だった。
石段を少し上がると、いくつもの墓碑が並んでいた。
美咲さんは墓地台帳で確認した番号と場所を、慎重に見比べた。
「こちらだと思います」
僕は彼女のあとに続いた。
場所を確かめていた美咲さんが、向こう側を指した。
「あそこです」
僕は歩いていき、墓碑の正面を確認した。
越智家之墓。
慎重に横へ回った。
側面の大きな石に、名前が刻まれていた。
僕はそれを一つずつ確認した。
「見つけました」
美咲さんが近づき、僕が指で示したところを見た。
越智正雄。
その横に、越智亞里という名が刻まれていた。
けれど、越智亞里の名前の横に、小さな印が刻まれているのが目に入った。
誰かが傷つけた跡でも、石が自然に割れたものでもなかった。
「あれ。これは」
僕は、越智亞里の横にある小さな印を指した。
「十字架ではありませんか」
「私にも、そう見えます」
「ほかの方には、こういう印はありませんよね」
「はい」
越智亞里の名前の横にだけ、小さな十字架があった。
「韓国に比べると、日本ではキリスト教徒は少ないですよね」
「はい」
「鄭雅利さんが、基督教系女学校出と記されていたのを覚えていますよね」
「覚えています」
「もし、信仰を持っていたのなら……この印を望んだのかもしれません」
「その可能性はありそうです」
僕は、キリスト教の祈りにできるだけ近い形で手を組み、黙祷した。
美咲さんも僕を見てから、同じように手を組んだ。
鄭雅利という名前はなかった。
けれど代わりに、小さな十字架の印が、彼女を示す手がかりとして残っていた。
短い黙祷を終えてから、僕と美咲さんは、さっき立ち寄った事務所へもう一度戻った。
美咲さんは、越智正雄について尋ねた。
「終戦後、故郷のこちらに戻られて、大きく成功された方だと聞いています」
「ご子孫の方は、今もこちらに住んでいらっしゃるのでしょうか」
担当者は、すぐには答えなかった。
個人情報を簡単に話すのは難しいようだった。
美咲さんは、軽く頭を下げて言った。
「私たちは、朝鮮に残っていた昭和二十年の資料を調べています」
「朝鮮に残っていた資料ですか」
「私たちが見つけた当時の書類の中に、越智正雄さんと、その奥さまである越智亞里さんに関する記録がありました」
「お二人の記録を見つけたのですか」
「はい。ご迷惑にならない範囲で、短くてもかまいませんので、お二人のご子孫に事情をお伝えいただくことはできないでしょうか」
美咲さんの言葉に、担当者はしばらく迷っていた。
「住所や連絡先をお教えすることはできません」
「はい。理解しています」
「ただ……末の息子さんでしたら、まだ今治にいらっしゃいます。ご高齢ですが、今でも家のことには時々顔を出されると聞いています」
「ご連絡をお願いすることはできますでしょうか」
美咲さんの問いに、担当者がわずかにうなずいた。
「先方からお返事があるかは分かりませんが、お伝えするだけでしたら」
「それだけでも、ありがとうございます」
美咲さんは鞄から小さなメモを取り出し、自分の名前と携帯番号を書いた。
「ご迷惑でなければ、この番号にご連絡いただけるかどうかだけ、お伝えください」
担当者はしばらくメモを見下ろしてから、慎重に受け取った。
「お伝えしてみます。ただ、会ってくださるかどうかは分かりません」
「はい。ありがとうございます」
美咲さんが、もう一度頭を下げた。
僕もそれに合わせて頭を下げた。
そうしてお願いを終えて外へ出ると、空は少し曇っていた。
「連絡をくださるでしょうか」
「そう願っています」
美咲さんの言葉に、僕は遠くの墓地のほうをもう一度見た。
名前の横の十字架。
それが、帰ろうとしていた僕たちの足を、この町で止めていた。




