第50話 橋のなかった道
因島 土生取次。
その文字を確認したあと、僕と美咲さんはまた車に乗った。
「それでも、今回は場所がもっと具体的です」
美咲さんが前を見ながら言った。
「尾道側取扱だけだったときより、ずっといいじゃないですか。因島の土生。少なくとも、どの港のあたりを見ればいいのかはわかりましたから」
「そうですね」
僕は窓の外を見た。
尾道水道が、また目に入った。
「道路があるのは、ありがたいですね」
「車に乗っていると、島と島のあいだを渡ることも、少し長い移動にすぎませんから」
「でも、あのころは違ったんですよね」
「そうですね。船で移動したはずです」
荷物は港から港へ、船から船へ、人の手から人の手へと移されていったのだろう。
車は尾道の市街を抜け、島のほうへ向かう道に入った。
風景が少しずつ変わっていった。
「あれが因島大橋ですか」
「はい」
「わあ」
僕は思わず声を出した。
橋は思っていたより長く、高かった。
車が橋の上へ上がると、海が下に広がった。
「きれいですね。本当に景色がいいです」
僕の言葉に、美咲さんもうなずいた。
因島に入ると、風景はまた静かになった。
低い山が近く、道は島の曲線に沿って続いていた。
店や家がぽつぽつと現れ、港のほうへ下りる道には、船に関係する看板が目に入った。
美咲さんは土生港のほうへ車を走らせた。
「ここが土生のほうです」
「名簿にあった土生取次は、この近くにあった可能性がありますね」
「そうでしょうね。正確な場所は、もう少し資料を見ないとわかりませんけど」
土生港の周辺は、尾道とはまた違っていた。
僕は車を降りてから、しばらく周りを見回した。
尾道が、町と島の向かい合う場所だとすれば、ここはもう少し港そのものに近かった。
船と桟橋の姿が、僕の目にはっきり見えた。
「ここにも、地域の資料を探せる場所があると思います」
郷土資料室を探した。
尾道の資料室よりは、少し小さい印象だった。
壁には、地域の古い写真や航路図、島の地図が掛かっていた。
美咲さんが事情を説明すると、担当者は、古い資料は多くないと先に言った。
「ただ、当時の取次所の名前くらいなら、一部残っているかもしれません」
美咲さんがすぐに反応した。
「山崎回漕店扱という表現があるか、確認できますか」
担当者は少し考えてから、古い書類綴りを渡してくれた。
僕と美咲さんは、それを読み始めた。
尾道や向島、今治など、港や島の名前が短く続いていた。
そのうち、ある項目で美咲さんの手が止まった。
「ハルさん」
僕は彼女の指先を追った。
そこには、短い項目があった。
山崎回漕店扱。
そして、その横。
尾道ヨリ。
今治方面便。
一時預リ。
僕はその行を、何度も読み返した。
「一時的に預かった場所だったみたいですね」
「荷物そのものの記録はありません。でも、尾道から今治へ向かう荷物が、因島の土生を通っていたことはわかりました」
美咲さんがうなずいた。
「では、亞里さんの荷物も、その道を通ったのかもしれないんですね」
「はい」
ただ、残念ながら、ここでもそれ以上の詳しい情報は確認できなかった。
結局わかったのは、荷物が今治へ向かったということだけだった。
調査を終えて外に出ると、僕は美咲さんに提案した。
「アアでも飲みますか」
喉が渇いていたので、自然に出た言葉だった。
美咲さんがすぐに笑った。
「アア、いいですね」
「もう完全に慣れましたね」
「ハルさんがよく言うので」
美咲さんはそう言ってから、港の近くの小さな売店のほうを指した。
「でも今日は、アイスアメリカーノもいいですけど、これもおいしいと思います」
彼女が指した冷蔵庫の中には、八朔ソーダとはっさく大福が置かれていた。
「はっさくですか」
「因島のほうで有名な果物です。少し酸っぱくて、少し苦くて……私はその味が好きです」
僕は冷蔵庫の中を見た。
「では、今日はこれにしましょう」
八朔ソーダとはっさく大福を買って、土生港の近くのベンチに座った。
港には風が吹いていた。
船が動くたびに、水が小さく揺れた。
僕はまず、ソーダをひと口飲んだ。
甘かった。
けれどすぐに、舌の先に酸味とほろ苦さが残った。
「思ったより……複雑な味ですね」
「でしょう?」
美咲さんが笑った。
「最初は甘いんですけど、あとで少し苦いんです」
僕は瓶を見下ろした。
「鄭雅利さんは、ここに着いたとき、どんな気持ちだったのでしょう」
美咲さんは、しばらく黙っていた。
僕は言葉を続けた。
「新しい名前をもらって、新しい暮らしを始める。そういう気持ちだったのでしょうか」
越智亞里。
「ここまでは、無事に来られたのでしょうね」
「そうでしょうね。越智亞里という名前で動いていたのなら」
僕は海を見ながら考えた。
もしかすると、あの名前を使いながら、今感じた味に近いものを感じていたのかもしれない。
僕はその考えを、口には出さなかった。
美咲さんは、はっさく大福を慎重にひと口かじった。
僕も、手に持っていたはっさく大福を同じように食べた。
やわらかい餅と白あんのあいだで、はっさくの果肉を噛みしめた。
甘かった。
けれどやはり、最後に苦さが残った。
僕たちはしばらく黙って海を見てから、立ち上がった。
「次の目的地へ向かいましょう」
荷物と人が向かった場所。
今治だった。




