第49話 尾道側取扱
翌日、美咲さんが車を出してくれた。
「よろしくお願いします」
僕は美咲さんに礼を言った。
今回も、助手席は僕の席だった。
「でも、初めて日本に来たときよりは少し慣れました。緊張が抜けたのか、周りの景色も前より見えるようになりました」
窓の外の海と低い山、そしてそのあいだに続く道が、僕の目に入ってきた。
「出発してよかったですね」
美咲さんの言葉に、僕は彼女を見た。
「最近、重いものを読んでいましたから。こうして外に出ると、少し気持ちがほぐれます」
「僕もです」
僕は窓の外を見た。
鞆の浦を離れると、道は少しずつ広くなった。
海が遠ざかり、また近づき、低い屋根が窓の外を過ぎていった。
「道に詳しいんですね」
美咲さんは、慣れた様子で車を走らせていた。
僕は、わざわざスマートフォンの地図を確認する必要がなかった。
「尾道は初めてですよね」
「はい」
「観光地としても有名です。千光寺もありますし、景色もいいですよ」
「そうなんですね」
「移動しているうちに、自然と尾道の風景も見られると思います」
美咲さんの言葉は、すぐに理解できた。
尾道に近づくと、海はだんだん狭くなり、港と島のあいだに挟まれた水路のように見えた。
海というより、町と島のあいだを流れる広い川のようにも感じられた。
「ソウルの漢江を見ているみたいです」
僕が何気なく言うと、美咲さんが少し意外そうにこちらを見た。
「漢江って、そんなに広いんですか?」
「はい。初めてソウルに来た観光客が、漢江を見て驚くことがあるそうです。思ったより広いので」
しばらくして、美咲さんは港の近くの駐車場に車を止めた。
外へ出ると、海風が体を包んだ。
鞆の浦で感じた風とは少し違う、町の匂いがもう少し混じった風だった。
「あちらが向島です」
美咲さんの言葉に、僕は顔を向けた。
尾道水道の向こう側にある島。
「近いですね。でも、当時は橋がなかったんですよね」
「はい」
僕と美咲さんは、郷土資料室を訪ねた。
港から、それほど離れていない場所にあった。
観光客らしい人も何人か見えた。
「先に連絡を入れておきました」
準備のいい美咲さんのおかげで、長く待つ必要はなかった。
しばらくして、担当者らしい男性が姿を見せた。
事情を説明すると、担当者は親切に応じてくれた。けれど、僕たちの望む資料はほとんど残っていないという返事だった。
やはり、そうか。
予想はしていたが、実際に聞くと少し力が抜けた。
「商会の名前を探すことはできますか」
美咲さんが担当者に尋ねた。
担当者はうなずいた。
「商工人名簿や港湾関係者の一覧なら、可能性はあります。商号は正確にはどう書かれていましたか」
僕はノートパソコンに保存しておいた写真を開いた。
「山崎回漕店です。尾道港前と書かれていました」
担当者は少し考えてから、古いファイル箱をひとつ取り出した。
「一度、こちらで確認してみてください」
その中には、薄い冊子が何冊か入っていた。
昭和二十年代の書類だった。
こんなものが、まだ残っているのか。
正直、驚いた。
韓国では、朝鮮戦争を経て、過去の記録を収めた公的な書類の多くが失われていた。
けれど日本には、まだ残っているものがあった。
僕と美咲さんは、慎重にページをめくった。
「山田……」
「山本……」
「山内……」
山崎回漕店。
見つけた。
「ありますね」
美咲さんが小さく言った。
「はい。祖父の文書にあった商会は、実際に存在していました」
美咲さんは、担当者に当時の港の地図を頼んだ。
「こちらです」
担当者は、別のファイルから古い地図を出してくれた。
「今とは少し違いますね」
海は同じ場所にあったが、建物は違っていた。
美咲さんが現在の地図を横に置いて比べた。
「このあたりですね」
美咲さんが、指で地図の上を示した。
「駐車場から通ってきた道の近くです」
「では、行ってみることはできますね」
僕と美咲さんは必要な部分を写真に撮り、担当者に礼を言って資料室を出た。
港のほうへ、また歩いた。
僕はそこでようやく、周りをもう少し詳しく見ることができた。
海風は涼しく、遠くの丘の上には、美咲さんが話していた千光寺山の緑が見えた。
「あそこではないでしょうか」
美咲さんの言葉に、僕は顔を向けた。
地図に示された場所には、比較的新しく建てられたような建物があった。
「ここだったようですね……」
僕たちは周囲をもう一度見回したが、山崎回漕店はもう残っていなかった。
「残念ですが、荷物の調査はここまでのようですね」
「それでも、商会の名前を見つけられただけでも大きいです」
そのとき、美咲さんが資料室で撮ってきた名簿の写真をもう一度開いた。
「ハルさん」
「はい?」
「この行の下に、さっきはよく見ていなかった文字がもうひとつあります」
僕は彼女のスマートフォンの画面をのぞき込んだ。
山崎回漕店の項目の下、今治方面便の横。
そこに、小さな文字が付いていた。
写真を拡大すると、その文字が少しだけはっきりした。
因島 土生取次。
僕はその文字をしばらく見つめた。
「つち……いえ、これは、はぶと読むんですか」
「土生は、はぶと読みます。因島のほうの港の名前です。今は車で行けますけど、当時は船だったでしょうね」
「土生……」
「行ってみますか」
美咲さんの提案に、僕はうなずいた。
「そうですね。僕たちは、無駄足ではありませんでした。むしろ、ここでようやく道が具体的に見えてきました」
「具体的に、ですか」
「人の記録よりも、荷物の記録のほうが正確に残っていることもある、ということです。僕たちはちゃんと、鄭雅利さんに近づいています」
僕の笑みを見て、美咲さんも静かに笑った。




