表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鞆の浦にて、千代子と ――海を渡った写真と、二つの名前――  作者: catseye
第二部 鞆の海を忘れられなかった男
PR
46/70

第46話 アリという名前

「では、この朝鮮人女性を探さないといけませんね」


美咲さんがそう言った、そのときだった。


そばを通りかかった男女が、ふとこちらを見た。


旅行客のように見えた。


僕たちを見る表情は、あまり好意的なものではなかった。


やがて、二人はそのまま店を出ていった。


「あの人たち、どうしたんでしょう」


その視線に気づいた美咲さんが、少し戸惑った顔で二人の後ろ姿を見た。


「僕の推測ですが、たぶん韓国人の観光客だと思います」


美咲さんが、もう一度二人の去ったほうを見た。


「私、何か変なことを言いましたか」


僕は少し迷ってから、できるだけ慎重に言葉を選んだ。


「美咲さんが、誰かを蔑むつもりで『朝鮮人』という言葉を使ったのではないことはわかっています。

でも、現代の韓国人には、その言葉が違って聞こえることがあります」


「朝鮮人、という言い方ですか」


「はい」


僕は少し声を落とした。


「たとえば日本でも、『部落』という言葉は、文脈によっては慎重に使う必要がありますよね。辞書的な意味とは別に、社会的には慎重に扱うべき言葉ですから。韓国では、『チョセンジン』という響きが、そういうふうに受け取られることがあります」


美咲さんは、ゆっくりとうなずいた。


「どういうことか、わかった気がします。これからは言葉を選んで使います。教えてくださって、ありがとうございます」


「僕も、先に説明しておくべきでした」


それから、美咲さんはまた画面を見た。


「では……この女性を探さないといけませんね。どうやって探しましょう」


「まず、越智正雄の名前をもとに、ほかの書類があるか探してみましょうか」


「二十七 越智正雄」


けれど画面を送っていっても、彼についての新しい情報はなかなか出てこなかった。


僕は画面を少し上へ戻した。


「別紙参照」


「名簿参照」


「別紙があるはずです」


「その別紙がどこにあるかが問題ですね」


僕はファイル一覧を開き直した。


美咲さんが隣で画面を一緒にのぞき込んだ。


「整理番号で探せるといいんですけど」


「本当にそうですね」


僕はファイルを一つずつ開いた。


けれど、探している情報はなかった。


「これも違うみたいです」


「ここでもないですね」


「これは別の番号ですね。十九番」


美咲さんの声に、少し疲れが混じっていた。


そのとき、僕の目に新しい項目が入った。


「内地側記載」


「日本側へ提出するために整理した表でしょうか」


僕は画面を下へ送った。


「山本――」


「田中――」


「小野――」


さっき見た名前だった。


その下のほうに、探していた名前が現れた。


「越智正雄」


その右側に、いくつかの文字が続いていた。


「妻」


次の行。


「越智亞里」


美咲さんが目を細めて読んだ。


「越智亞里……おち・あり、でしょうか」


僕は画面を見ながら言った。


「越智正雄の姓を付けた名前のように見えますね」


「もっと探してみましょう」


そのあとに出てきた画面は、長い帳簿のようなものだった。


幸い、スキャン画像を拡大して、一つずつ読むことはできた。


けれど、越智亞里という名前はそれ以上見つからなかった。


「検索機能が必要です。検索機能」


美咲さんが、頭をがくりと下げた。


「少し休んでください」


僕が言うと、美咲さんは目を閉じたまま椅子の背に寄りかかった。


「お願いします。ハルさん」


そう言いながら、美咲さんがつぶやき始めた。


「おちあり……アリ」


「おちあり……アリ」


まるで歌を口ずさんでいるようだった。


その声を聞きながら、僕はスキャン画面を送っていった。


そのうち、名簿が韓国式の名前に見える部分へ移った。


さっき急いで見たときも、こちらには日本名がなかった。


だから、そのまま通り過ぎていたところだった。


そのとき、僕の耳に、美咲さんのつぶやきがまた聞こえた。


「おちあり……アリ」


その瞬間、何かがはっと浮かんだ。


アリ。


僕は一つの可能性に気づいた。


もしかして。


僕は慎重に、女性側の名簿の名前を確認した。


「金――」


「李――」


「朴――」


僕はゆっくり下へ進んだ。


「アリ……」


美咲さんが、またつぶやいた。


そのとき、僕の目が一行で止まった。


「鄭雅利」


チョン・アリ。


僕は心の中で息を呑んだ。


「美咲さん」


「はい?」


「見つけたようです」


「越智亞里をですか」


「いえ。元の名前です」


僕は画面を指した。


「鄭雅利」


美咲さんが身を乗り出した。


「これは、どう読むんですか」


「韓国式に読むと、チョン・アリです」


「チョン……アリ」


美咲さんが、慎重に繰り返した。


そしてすぐに、彼女の目の色が変わった。


「アリ」


「はい」


僕は、さっきの表をもう一度開いた。


「越智正雄」


「妻」


「越智亞里」


「今治方面」


そしてまた、女性側の資料へ戻った。


「鄭雅利」


その下には、短い備考が続いていた。


「基督教系女学校出」


「日本語会話可」


「渡航希望」


「目的地 今治方面」


「同伴予定者 日本人男性」


「正規手続困難」


美咲さんが、一行ずつ読んだ。


「キリスト教系の女学校出身……日本語会話可……渡航希望……目的地、今治方面」


彼女はまた前の表を見た。


「越智正雄と、その妻も今治方面でしたよね」


「はい」


「そして、鄭雅利さんも今治方面」


「はい」


美咲さんが、ゆっくり言った。


「姓も違うし、漢字も違いますね」


「はい。でも、名前の音が同じです。アリ」


「では……鄭雅利さんが、日本側の書類では越智亞里と書かれたのでしょうか」


「その可能性が高いと思います。たぶん、姓は越智を取り、名前は自分の元の名前の音を残して、亞里にしたのだと思います」


「そうかもしれませんね。ハルさん、すごいです。私なら、気づかずに通り過ぎていたと思います」


「僕も同じです。アリという日本語の読みを、何度も口にしてくれていなかったら、手がかりにはなりませんでした。美咲さんのおかげです」


「私は目を閉じて、つぶやいていただけですけど」


「それが手がかりでした」


美咲さんは少し照れたように笑った。


「では、次からも少し休んだほうがいいですね」


「それは状況を見てからで」


「冷たいですね」


「違います。とても効果的でした」


美咲さんが小さく笑った。


ほんの少しだけ、カフェの中の空気が軽くなった。


しばらくして、僕たちはまた鄭雅利さんについて話し始めた。


「キリスト教系の女学校出身なら……当時としては、教育を受けたほうなのでしょうか」


「その可能性は高いと思います。それに当時の状況を考えると、日本語会話可と書かれているのは、実質的には日本人とある程度自然に話せたという意味にも見えます。名前が少し特徴的なのも、キリスト教系の学校で使っていた名前に由来するのかもしれません」


僕の言葉に、美咲さんはしばらく何かを考えてから口を開いた。


「鄭雅利さんは……本当に日本へ行きたかったのでしょうか。家族を置いてでも」


僕はすぐには答えられなかった。


書類には、一行が残っていた。


「渡航希望」


「希望と書かれています。おそらく、越智正雄について日本へ行くと決めていたのでしょう。ただ、その決心がどういう状況で生まれたものなのかは、まだわかりません」


「でも、結婚していたわけではなかったんですよね。だから、こういう印が付いたのでしょう?」


僕は画面の下のほうを見た。


「正規手続困難」


「そうだと思います」


少しして、僕はマウスをまた動かし、画面を拡大した。


「もう少し下に何か書かれているか、見てみます」


その瞬間、体が固まった。


「担当 佐伯春雄」


祖父の名前が、小さく書かれていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ