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鞆の浦にて、千代子と ――海を渡った写真と、二つの名前――  作者: catseye
第二部 鞆の海を忘れられなかった男
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第44話 残っていた言葉

「知らない番号です。たぶん……あの方だと思います」


美咲さんは短く息を吸ってから、通話ボタンを押した。


「はい。藤井美咲です」


会話が続いた。


「はい。メモを残した者です」


「先日、浜野フミさんのお手紙を撮影させていただいた……はい。そうです」


しばらく沈黙があった。


「可能でしたら、直接お会いしてお話ししたいと思っています」


また短い沈黙。


美咲さんの指が、スマートフォンの端を静かに包んだ。


「今……伺ってもよろしいでしょうか」


少しして、来てもいい、という返事だったようだ。


「はい。ありがとうございます。すぐに伺います」


通話が終わった。


美咲さんは、すぐにはスマートフォンを下ろさなかった。


画面が暗くなったあとも、彼女はしばらくそれを見つめていた。


「あの方でしたか」


僕が尋ねた。


美咲さんはうなずいた。


「はい。メモを見たそうです」


「今なら大丈夫だと?」


「はい」


彼女はゆっくりと車の鍵を手に握った。


「聞いてくださるそうです」


車はまた港町のほうへ向かった。


さっき通ってきた道を戻ることになった。


僕は助手席で、何も言えなかった。


何を話せばいいのか。


そのことだけが、頭の中で繰り返された。


「朝鮮半島で戦争が始まったころに、お二人が亡くなったようだということ。記録に、お二人の名前が一緒にあったということ。そこまでは、お伝えしたほうがいいと思います」


美咲さんは小さくうなずいた。


車は、またその家の前で止まった。


今度は、扉の近くに人が立っていた。


以前、僕たちに手紙を見せてくれた老婦人だった。


彼女は美咲さんが残していったメモを手にしていた。


美咲さんが先に車を降り、僕もあとに続いた。


「突然また伺って、申し訳ありません」


美咲さんが言った。


老婦人は、ゆっくり首を横に振った。


「いいえ。私からご連絡したのですから」


その声は、どこか緊張しているようだった。


「新しくわかったことがある、と書いてありましたね」


「はい」


美咲さんは、すぐには言葉を続けられなかった。


老婦人は、しばらく僕たち二人を交互に見た。


「よい知らせでは、なさそうですね」


美咲さんの目が揺れた。


僕は一歩前へ出た。


「申し訳ありません。はっきりお伝えできる部分と、まだ慎重にしなければならない部分があります」


老婦人は静かにうなずいた。


「かまいません。中でお話しになりますか」


僕たちは家の中へ入った。


古い家具と低い机、そして壁の一方には、色褪せた写真が掛かっていた。


僕たちは低い机の前に座った。


老婦人はお茶を出そうとしたが、美咲さんが慎重に辞退した。


「大丈夫です。今日は……先にお話ししたほうがいいと思います」


老婦人は座った。


彼女の手は、膝の上に置かれていた。


美咲さんは短く息を吸った。


「昭和二十五年。つまり西暦で一九五〇年の記録に、高 山さんと浜野フミさんのお名前が一緒にありました」


老婦人は目を閉じなかった。


ただ、視線を少し下へ落とした。


美咲さんの声は揺れていたが、崩れてはいなかった。


「戦争が始まって、まもなく……お二人とも亡くなられたようです」


老婦人は、しばらく何も言わなかった。


けれど少しして彼女が口を開いたとき、その声にあったのは驚きよりも、長いあいだ持っていた諦めに近かった。


「やはり……そうでしたか」


美咲さんが顔を上げた。


「もしかして、ご存じだったのですか」


「私というより、父がです。朝鮮半島で戦争が始まってから、向こうからの知らせが途絶えたと聞いています。父は表には出しませんでしたが……おそらく、生きてはいないだろうと思っていたのだと思います」


彼女は、手にしていたメモを置いた。


「知らせてくださって、ありがとうございます。それから実は、手紙は一通だけだと思っていました」


「一通だけではない、ということですか」


美咲さんが尋ねた。


老婦人は小さな引き出しのほうへ歩いていった。


「父の遺品を整理したとき、もう一枚、残っていました。手紙と呼ぶには少し曖昧なものですが」


彼女は、古い封筒をひとつ取り出した。


その中から出てきたのは、薄い紙が一枚だった。


色は褪せ、端は水に濡れたように波打っていた。


「前の部分は失われています」


老婦人は、紙を慎重に机の上に置いた。


「日付もわかりません。残っているのは、裏側にあたる一枚だけです。真ん中は水に濡れて、読めません」


老婦人は紙を持ち上げた。


「写真に残しますか」


美咲さんは少し迷った。


けれどすぐに、首を横に振った。


「いいえ。今日は……読んでいただくだけで十分です」


「わかりました」


彼女は古い紙を両手で持った。


そして、残っている文字をゆっくり読み始めた。


「京城の店は、今、整理しています」


部屋の中に、古い手紙の言葉が流れた。


「思ったより時間はかかっていますが、片づきしだい、日本へ行くつもりです」


そこで、老婦人の声が少し止まった。


紙の真ん中には染みがあった。


水に濡れて滲んだ部分だった。


老婦人はその部分に指を触れず、読み飛ばした。


「……夫は、いつも私に、すまないと言います」


美咲さんが息を止めるのがわかった。


老婦人は読み続けた。


「けれど、私はそのたびに言います」


彼女の声が、ほんの少し低くなった。


「あなたと一緒にいられて、私はとても幸せだと」


古い部屋の中に、その一文だけが静かに残った。


老婦人は、最後の行を読んだ。


「最後の時まで、私はあなたと一緒にいるつもりです」


読み終えてから、彼女はしばらく紙を折ることができなかった。


美咲さんも、何も言わなかった。


僕も同じだった。


老婦人は、ゆっくりと紙を置いた。


「父がこの紙を捨てられなかった理由が……今なら、少しわかる気がします」


美咲さんが静かに頭を下げた。


老婦人は手紙を、また封筒の中に戻した。


「フミ伯母が、不幸だっただけではなかったのですね」


◆◆◆


僕たちは挨拶をして、家を出た。


外へ出ると、風が吹いていた。


海のほうから来る風だった。


美咲さんは車のドアを開ける前に、しばらく立ち止まった。


僕もすぐには車に乗らなかった。


町の低い屋根のあいだから、遠くに海が少し見えた。


「ハルさん」


美咲さんが言った。


「はい」


「本当に……あれ以上はお伝えしなくてよかったのでしょうか」


何のことを言っているのかは、尋ねなくてもわかった。


「わかりません」


正直に、そう言うしかなかった。


「でも、今日あの方にお伝えするのは、そこまででよかったのだと思います」


美咲さんは静かにうなずいた。


「私も……そう思うことにします」


僕たちは車に乗った。


美咲さんは、すぐにはエンジンをかけなかった。


車の中は、さっきよりもさらに静かだった。


「手紙は、いつ送られたのでしょう」


美咲さんの言葉に、僕は少し考えた。


「正確な日付はわかりませんが……昭和二十五年、つまり一九五〇年初めごろなら、ソウルでは以前のように、米軍相手の商売が難しくなっていたはずです。米軍政は終わっていて、駐留していた米軍もほとんど引き揚げたあとでしたから」


「そうなんですか」


「酒や煙草、そして米軍の客を相手にしていた店なら、商売を整理するか、業種を変えようとしていた可能性は高かったと思います」


「だとしたら、最後の手紙はたぶん……」


美咲さんは、言葉を最後まで続けられなかった。


僕は前を見た。


さっき老婦人が読んでくれた手紙の言葉が、まだ耳に残っていた。


「あのお二人が最後に何を言ったのか……少しだけ、わかる気がします」


美咲さんが小さくつぶやいた。


そして、息を詰めるように、静かに泣いた。


僕は目を閉じた。


すると、そのときの光景が浮かび始めた。


◆◆◆


人民裁判が終わったあと、人々はまた動き始めた。


「早く動け」


銃を持った人民軍の兵士たちが、人々を囲んでいた。


高 山と浜野フミも、その中にいた。


「向こうへ行け!」


その先には、長く続く壁があった。


人々が壁の前に立たされたとき、フミが高 山の手を取り、彼のそばへ寄った。


高 山が小さく言った。


「すまない」


フミは首を横に振った。


「言ったでしょう」


フミは、その手をもっと強く握った。


「あなたと一緒にいられて幸せだと。そして、最後の時まで一緒にいると」


その言葉が終わると、二人は互いを抱きしめた。


向こう側から命令が飛んだ。


「構え!」


銃を持った兵士たちが、壁の前に並ぶ人々へ銃口を向けた。


短い沈黙があった。


銃声が響いた。


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