第43話 少しだけ、海へ
「でも……ただ知らないふりをすることも、できない気がします」
そう言ったあと、僕はしばらく何も言葉を継げなかった。
美咲さんも、すぐには答えなかった。
ノートパソコンの画面には、さっき開いた資料の文字がまだ残っていた。
処分前、両名、何カ囁ク。内容、確認不能。
短い文だった。
それなのに一度読んでしまうと、画面を閉じたからといって消える文字ではないように感じられた。
「連絡先を知らないということもありますけど、たとえ知っていたとしても……これは電話で話せることではありませんね」
「はい。直接会って話したほうがいいと思います」
「でも、どこから話せばいいのか……」
美咲さんは小さく息を吐いてから、ノートパソコンの画面を閉じた。
「行きましょう」
美咲さんの声は静かだった。
けれど、迷っている声ではなかった。
僕はノートパソコンを鞄に入れ、母が送ってくれた資料ファイルをもう一度確認してから、鞄を閉じた。
◆◆◆
美咲さんの車は、鞆の町を離れた。
前に一度通った道だった。
古い住所を手がかりに、美咲さんが車を走らせて向かった、あの港町へ向かう道だった。
そこには浜野フミの実家らしい家があり、その隣の家に、あの方がいた。
道は広くなり、また細くなった。
窓の外を低い家々が過ぎていき、少し離れたところには、海の光がちらちらと見えた。
車の中で、僕たちはほとんど話さなかった。
美咲さんは前を見て運転していた。
僕は膝の上に置いた鞄を、片手で押さえていた。
「この道で……合っていますよね」
美咲さんが、確かめるように尋ねた。
「はい。前もこちらから来たと思います」
車は港町の細い道へ入った。
前と同じ古い家々が見えた。
美咲さんは速度を落とし、記憶をたどるようにハンドルを切った。
「ここ……でしたよね」
車が止まった。
僕たちは外へ出た。
最初に訪ねた住所の家は、前と同じように静かだった。
その隣の家の前へ回り、美咲さんが玄関のほうへ慎重に声をかけた。
返事はなかった。
少し待ってから、もう一度呼んでみた。
それでも、中に人の気配は感じられなかった。
「今日は、いらっしゃらないみたいですね」
美咲さんが言った。
「また来たほうがいいでしょうか」
「そうですね……でも」
美咲さんは鞄から小さなメモ帳を取り出した。
「連絡先だけ、残していきます」
「僕の連絡先より、美咲さんの連絡先のほうがいいと思います」
「はい。そのほうが、あの方も連絡しやすいと思います」
美咲さんは少し考えてから、整った字でメモを書いた。
先日、浜野フミさんのお手紙を写真に撮らせていただいた藤井美咲です。
その手紙に関係して、新しくわかったことがあります。
可能でしたら、直接お話ししたいと思っています。
お時間のあるときに、ご連絡いただけますでしょうか。
藤井美咲
僕は横で、彼女が自分の電話番号を書き添えるのを見ていた。
美咲さんはメモを封筒に入れ、風で飛ばないように差し込んでおいた。
そして、少し離れたところから、もう一度玄関のほうを見た。
「伝わるといいですね」
「はい」
僕たちは車へ戻った。
けれど美咲さんは、すぐにはエンジンをかけなかった。
ハンドルの上に手を置いたまま、しばらく前を見ていた。
「少しだけ、海を見てもいいですか」
僕は美咲さんを見た。
「大丈夫ですか。早苗さんのこともありますし」
「大丈夫です」
美咲さんが、ほんの少し笑った。
「今日は、風に当たりたいんです」
「僕でよければ」
そう言うと、美咲さんはゆっくり車を出した。
◆◆◆
港の近くに、海の見える小さな店があった。
食事も出しているようだったが、中の雰囲気はカフェに近かった。
窓際の席に座ると、低い防波堤と、その向こうに広がる瀬戸内の海が見えた。
波はほとんどなかった。
小さな漁船が何艘か、岸に近いところで静かに揺れていて、遠くには島影が薄く重なっていた。
美咲さんはメニューを開いた。
僕もメニューを見ようとしたとき、美咲さんが先に尋ねた。
「ハルさんは、アアでいいですか」
一瞬、何のことかわからなかった。
それから、僕は少し笑った。
「覚えていたんですか」
「はい。アイスアメリカーノ、ですよね」
「はい。では、それでお願いします」
美咲さんは、またメニューへ視線を落とした。
「私は今日は温かいものにします。アアは、また今度にします」
その言い方がほんの少し軽くて、僕はもう一度笑った。
大きく笑うことはできなかった。
それでも笑えたことに、自分でも少し驚いた。
注文を終えると、僕たちはしばらく窓の外を見ていた。
海を見ていると、息をする場所が少し広くなるような気がした。
飲み物が運ばれてきた。
僕の前には氷の入ったアイスアメリカーノが置かれ、美咲さんの前には湯気の立つ温かい飲み物が置かれた。
美咲さんはカップを両手で包むように持ったまま、しばらく黙っていた。
「少し、休みたいです」
僕はすぐには答えなかった。
資料をもっと確認したい気持ちはあった。
母が送ってくれるスキャンファイルも、まだ全部は届いていない。そこから、また別の名前や記録が出てくるかもしれない。
けれど、今はそれを急ぐときではないと思った。
「休みましょう。急がなくても、資料は逃げません」
美咲さんは、少し目を伏せた。
「ありがとうございます」
そう言って、美咲さんはカップを見つめたまま、小さくうなずいた。
店を出るころには、少し風が吹いていた。
強い風ではなかったが、車の中や店の中にばかりいた体には、その風がはっきりと感じられた。
美咲さんは車の鍵を手にしたまま、すぐにはドアを開けなかった。
「よければ、少しだけ車で海沿いを回ってもいいですか」
僕は彼女を見た。
「僕も一緒で大丈夫ですか」
「はい」
美咲さんは海のほうを見た。
「一人で見るより、そのほうが少し楽な気がします」
「わかりました」
車は港の道をゆっくり走った。
古い家々のあいだから、何度も海が見えた。
防波堤の向こうの水面は静かで、遠くに見える島影だけが、少しずつ形を変えていた。
美咲さんは無理に話そうとはしなかった。
僕も尋ねなかった。
窓の外に見える瀬戸内の海は、美しかった。
けれど、ただ美しいと言うには、今日の僕たちはあまりにも多くのものを見てしまっていた。
それでも、海はそこにあった。
何も知らないように、光を受け、風を受けて、静かに広がっていた。
「ハルさん」
しばらくして、美咲さんが言った。
「はい」
「さっきの資料のこと、忘れるというわけではありません。でも、今すぐ全部を抱え込んでいるのは……少し難しいです」
「はい。わかります」
車は海沿いの道を抜け、少し開けた場所でゆっくり止まった。
美咲さんは、そこでスマートフォンを確認しようとした。
その瞬間、画面が明るくなった。
小さな着信音が、車の中に響いた。
美咲さんの手が止まった。
画面を見た彼女が、小さく息を呑んだ。
「知らない番号です。たぶん……あの方だと思います」




