第42話 残らなかった言葉
「朝鮮半島で、戦争が始まった年です」
僕がそう言ったあとも、美咲さんはしばらく画面から目を離せなかった。
昭和二十五年。
高 山方店舗。
債権回収不能ノ件。
美咲さんが低い声で尋ねた。
「債権回収不能……貸したお金や、受け取るはずだったお金を、もう回収できないという意味で見ていいんですよね。だとしたら、事業がうまくいかなかったとか……店を整理したとか」
「ひとまず、次の資料を確認してみましょう」
僕は次の写真を開いた。
そこには、前の一枚よりもさらに乾いた文言が並んでいた。
高 山方店舗 債権回収不能ノ件
貸付分 回収不能
出資分 回収不能
売掛金 回収不能
在庫・備品 確認不能
帳簿 一部焼失
高 山・浜野フミ 所在確認要
美咲さんは一行ずつ読み下ろし、最後で止まった。
「所在確認要……」
「この時点では、まだ二人の生死を確認できていなかったようです」
文書の言い方は冷たく、お金のことが先に並び、そのあとにようやく人の名前が出てきた。
美咲さんは唇を結んだまま、画面を見ていた。
僕は次の写真を開いた。
朴相吉側記録
高 山方店舗 貸付・出資分整理
その下には、金額と品目、日付が書かれていた。滲んでいる部分が多く、正確には読めなかったが、先に見た資料と同じ流れにあることは確かだった。
「朴相吉側の記録ですね」
美咲さんが言った。
「はい。朴相吉が損失を確認しようとしていたようです」
「損失……」
僕は次の写真へ進んだ。
文書の上の余白に、本文とは違う字で小さく書き込みがあった。
森田。私が紹介。朴相吉ノ下。
朝鮮語、朝鮮人ト区別ツカズ。
美咲さんはその部分を読んで、首をかしげた。
「森田……日本の名前ですね」
「はい。祖父が紹介した人物のようです」
「朴相吉の下……朴相吉のもとで働いていたという意味ですよね」
「そう見えます」
僕は画面を少し拡大した。
「祖父は、この人が朝鮮語を、ほとんど朝鮮人と区別がつかないくらい話せたと書き残しているようです」
美咲さんは、しばらく何も言わなかった。
「日本人が、朴相吉の下で働いていたのでしょうか」
「たぶん」
僕は答えを選んでから、付け加えた。
「戦争が終わったあと、多くのものの位置が変わったのだと思います」
僕は次の写真を開いた。
紙は、さっきまでの会計資料よりも粗く見えた。字も少し急いで書かれていた。
現地確認覚書
店舗焼失
在庫散逸
関係者証言アリ
人民裁判
僕は、人民裁判という言葉で目を止めた。
美咲さんも読んでいた。
「人民裁判……これは何ですか」
「きちんとした裁判というより、人々の前で罪名を読み上げて、処罰を決めるようなものに近かったと理解しています」
僕は画面の文字から目を離せないまま言った。
「朝鮮戦争が始まって三日で、ソウルは占領されました。当時の日本側の資料では、京城と書かれていた都市です。そのとき占領地のあちこちで、協力者や反動とされた人たちが、人民裁判という名で引き出され……多くの人が亡くなったと聞いています」
美咲さんは何も言わなかった。
その瞬間、僕の頭の中で、韓国の映画やドラマで見たことのある場面が、短い文書の文字の上に重なった。
◆◆◆
広くはない広場。土埃の舞う庭。
前のほうには、「人民裁判」と大きく書かれた布が掛かっていた。
赤い腕章を巻いた男が、群衆の前に立っていた。
彼は書類を手にし、一人ずつ名前を呼んだ。
呼ばれた人たちは、前へ引き出された。
「この者は、人民の敵である!」
その声が広場に響いた。
引き出された者の罪名を読み上げたあと、どうすべきかを群衆に尋ねた。
集まった人々が叫んだ。
殺せ。
死刑だ。
「人民の名において、死刑に処す!」
法理も、弁護も見えなかった。
残っているのは、人々の前でその結論を叫ぶことだけのように見えた。
次に、高 山とその妻が前へ引き出された。
人民裁判を進めていた男が、二人の罪名を読み上げ始めた。
「この者たちは、米軍に協力した!」
「米軍を相手に酒と煙草を売った!」
「同胞の女たちを、米軍の接待に利用した!」
広場の声が、さらに荒くなった。
「米帝にすがった反動分子だ! この者たちに、どのような処罰を下すべきか!」
腕章を巻いた男の前で、高 山とその妻は何も言わなかった。
人民裁判の判決は、もう決まっていた。
ここで抗弁すれば、かえってもっとむごい暴力が続くはずだった。
群衆が叫んだ。
殺せ。
死刑だ。
「米帝の手先であるこの夫婦に、人民の名において死刑を宣告する!」
叫びが終わると、二人はほかの人々と一緒に連れていかれた。
◆◆◆
僕は、また画面の上の文字へ戻った。
次の写真を開いた。
そこには、前よりもさらに短い報告文があった。
高 山・浜野フミ
死亡確認
その下には、数行が続いていた。
発見ニ時間ヲ要ス
両名、抱き合った状態
顔貌確認
死亡確認
僕はその文を、二度読んだ。
両名、抱き合った状態。
その一文だけで、十分だった。
美咲さんは、もう声に出して読まなかった。
彼女の手が、テーブルの上で少し固くなっていた。
僕はうなずくことも、答えることもできなかった。
ただ画面を見つめ、それから次の一枚を開いた。
今度は、証言をまとめたような短いメモだった。
処分前、両名、何カ囁ク。
内容、確認不能。
美咲さんが、小さく息を吸った。
「最後に……何か、言ったんですね」
「そう書かれています」
「お二人は、その瞬間に何を言ったのでしょう」
僕は、何も言えなかった。
美咲さんも、それ以上は尋ねなかった。
美咲さんの目元を押さえる指先が、ほんの少し震えていた。
しばらくして、美咲さんが静かに言った。
「ハルさん」
「はい」
「これを……あの方にお伝えするべきでしょうか」
あの方。
それが誰を指しているのか、尋ねなくてもわかった。
高 山と浜野フミの痕跡を、僕たちに教えてくれたあの方。
僕はすぐには答えられなかった。
伝えていいことなのか。
伝えないほうがいいことなのか。
知らないままにしておくことが思いやりなのか、それとも残された人から真実を奪うことなのか。
どちらなのか、わからなかった。
「わかりません」
僕は、ようやくそう言った。
「でも……ただ知らないふりをすることも、できない気がします」




