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鞆の浦にて、千代子と ――海を渡った写真と、二つの名前――  作者: catseye
第二部 鞆の海を忘れられなかった男
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第40話 京城からの手紙

ノートパソコンの画面に、古い封筒の写真が映っていた。


僕はタッチパッドを動かし、写真を少し拡大した。


紙の端は擦り切れ、文字はところどころ滲んでいた。


それでも、封筒の表に書かれた太い文字は、ある程度読むことができた。


美咲さんが、少し身を乗り出した。


「宛名は、浜野清一ですね」


僕は画面を見つめたまま、ゆっくりとうなずいた。


「フミさんのお兄さんですね」


美咲さんが、もう一度画面を見た。


僕も文字を追おうとしたが、古い手書きの文字は、思ったより簡単には目に入ってこなかった。


「美咲さんがいてくださって、よかったです」


「私ですか?」


「はい。こういう古い手書きの日本語は、僕一人だったら、読むだけでもかなり時間がかかったと思います」


美咲さんは、少し困ったように笑った。


「私も、少し読みづらいです。古い字なので」


「それでも、僕よりはずっと読めます」


「そう言ってもらえると……役に立てている気がして、よかったです」


封筒の右下には、差出人の住所らしきものがあった。


美咲さんが、その部分を拡大した。


「釜山ではないですね」


「はい」


僕は小さな文字を、ゆっくり読んだ。


「京城……今のソウルです」


「では、釜山にいた二人が、京城へ移ったということですか」


「この手紙が書かれた時点では、そう見えます」


美咲さんは静かにうなずいた。


封筒の左下には、差出人の名前があった。


高 山。


その二文字は、つながっていなかった。


美咲さんが、また画面をのぞき込んだ。


「高山明夫さんではなくて……高と山が離れているように見えます」


「はい。僕にもそう見えます」


美咲さんは、次の写真を開いた。


本文の写真が現れた。


手紙は封筒より少しだけ鮮明だった。


それでも、紙の折れた部分の文字は薄く、インクの滲んだところもあった。


美咲さんが内容を見ながら言った。


「フミさんの名前がありますね。お兄さん宛てに、フミさんが手紙を書いたんですね」


彼女は続けた。


「ご無沙汰しております……かな」


冒頭は、浜野清一への挨拶から始まっていた。


長く連絡できず申し訳ないということ、釜山で暮らしていたが、今は京城へ上がってきたということが書かれていた。


美咲さんの読む声が止まった。


「店を開いた、とありますね。最初は大変だったけれど、今は品物がよく売れている、と。生活用品を扱っていて、外国人や米軍関係者の客もいる、と書いてあります」


そのあとの文面には、家を用意し、夫婦で休まず働きながら少しずつ店を大きくしていることが、明るい調子で書かれていた。


「日本へ行く話も、また出ていますね。日本へ行くことはまだ難しいけれど、数年のうちに朝鮮と日本の行き来が今より自由になれば、必ず訪ねたい。そのときは、お兄さんや家族の役にも立ちたい。今まで心配ばかりかけたから、これからは自分たちが助けになりたい、と」


「それから……お金のことも書いてあります」


「お金ですか」


美咲さんが、その部分をもう一度読んだ。


「心配しないでほしい、少しだけれどお金を送るので使ってほしい……という意味だと思います。ただ、ここに送金の控え……のようなもの、ともありますね」


「フミさんたちから、お兄さんへ送ったお金ということですね」


「はい。そう読めると思います」


僕は画面を見ながら、慎重に言った。


「当時、どういう形でお金を送ったのかは、もう少し確認しないといけませんね。ここでは、お金を送った記録のようなもの、と見るくらいにしておいたほうがよさそうです」


美咲さんは画面を少し下へ動かした。


手紙の最後に、名前があった。


フミ。


その下に、少し離れて書かれた二文字。


高 山。


美咲さんが静かに言った。


「やっぱり高山明夫ではなくて、高と山が離れています。書き間違いでしょうか」


「いえ。僕には……」


僕は少し言葉を濁した。


どう説明すればいいのか、少し迷った。


「韓国では、高が姓で、山が一音の名という形もありえます。たぶん、日本式の名前を作るときに、高と山をつなげて高山にし、そこに明夫という名を付けたのかもしれません」


「そういうこともあるんですね。いえ、ハルさんの話を聞くと、そうなのかもしれないと思えます」


「もしかすると、封筒に書かれた高 山という表記も、そのためなのかもしれません」


「そのため、ですか」


「はい。日本式の高山明夫という名前ではなく、高と山を離して書いた。日本へ手紙を送るときにも、そのほうが本人たちには自然だったのかもしれません。たとえ、手紙の文面を書いたのがフミさんのほうだったとしても」


「でも、不思議ですね」


「何がですか」


「どうして、そのあと連絡が途絶えたんでしょう」


そのとき、美咲さんが時間を確認した。


「すみません。今日はそろそろ帰らないといけなさそうです」


「無理しないでください」


「でも……ハルさんは先に見ていても大丈夫ですよ」


「一人でですか」


「はい。昨日も言いましたけど、調べるのを続けても大丈夫です。私がいなくても、ひとまず目を通すことはできますよね」


「できれば、一緒に見たいです」


美咲さんが瞬きをした。


「え?」


「この調査は、一人では完成しない気がします」


「一人では……」


「今日の手紙もそうです。古い手書きの日本語は、美咲さんがいなければ、僕が見落とすところがあると思います」


美咲さんは、何も言わずに僕を見ていた。


「でも、韓国語の名前や地名、戦後の朝鮮の事情は、僕がいたほうがいいと思います」


僕は、画面を一度見た。


「互いに知らない部分が違います。だから、わからないところを互いに確かめながら進めたほうがいいと思います」


美咲さんは、すぐには答えなかった。


カフェの奥で、カップが置かれる音がした。


彼女は指先で、ノートパソコンの横を軽く押さえた。


「毎日来るのは、難しいかもしれません」


「わかっています」


「家のこともありますし……母も、まだ完全に納得しているわけではないので」


「はい」


「それでも」


美咲さんが、小さく顔を上げた。


「時間を作ってみます」


僕は彼女を見た。


「ありがとうございます」


美咲さんは、もう一度画面を見た。


「でも、今日は先に目を通しておいてください」


「はい」


「ただ、勝手に結論は出さないでください」


「それは約束します」


「変だと思うところがあったら、教えてください」


「整理しておきます」


美咲さんはノートパソコンを閉じずに、そのまま席を立った。


「では……明日はまだわかりませんが、連絡します」


「待っています」


「無理しすぎないでくださいね」


僕は笑った。


「それは、僕が言うほうだった気がします」


美咲さんも、かすかに笑った。


「お互いに、ということにしましょう」


彼女がカフェを出たあと、僕はもう一度画面を見た。


保存されたファイルの中には、まだ開いていない写真がいくつもあり、封筒も、手紙も、名前も、まだ終わっていなかった。


僕はタッチパッドの上に手を置いた。


僕一人では読めないものが、そこにはまだいくつも残っていた。


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