第39話 ここに来れば
朝、目を覚ましてすぐにスマートフォンを確認した。
昨夜、僕が送った最後のメッセージ。
[無理しないでください]
その下には、何も続いていなかった。
僕はLINEの入力欄を開いた。
[今日はどうしますか]
そこまで書いて、消した。
代わりに検索窓を開いた。
ノートパソコンが必要だ。
スマートフォンでは、やはり難しかった。
古い手紙の写真を拡大し、文字を確かめ、名前を照らし合わせるには、画面が小さすぎた。
日本にも、ノートパソコンの短期貸し出しやレンタルのようなものはあるはずだ。
韓国では、急に数日だけノートパソコンが必要になったとき、レンタルサービスを使うことはそれほど珍しくなかった。
日本にも、似たようなサービスはあるだろうと思っていた。
あった。
けれど、ひとつずつ確認していくうちに、簡単ではないことがわかってきた。
本人確認。国内住所。身分証明。クレジットカード。法人向け。
思ったより、ずっと面倒だ。
僕はスマートフォンを置いた。
気づけば、もう昼に近かった。
昼ごろ、外へ出た。
コンビニで買ったサンドイッチで、簡単に食事を済ませた。
歩いているうちに、いつのまにか見慣れた道に出ていた。
午後二時少し前、僕はいつものカフェの前に立っていた。
自然と、またここへ来ていた。
店に入り、アイスアメリカーノを注文した。
席に座ってカップを置き、スマートフォンのメモを開いた。
そこに、いくつかのことを書き出していく。
釜山で何をしていたのか。
朴相吉とは何者なのか。
なぜ日本へ戻らなかったのか。
そして、朴相吉の名前に丸をつけた。
「今まで確認できた資料だけで見ると、この人がどうしても引っかかるんだよな。……こうしていると、本当に推理ものみたいだ」
以前、美咲さんが言っていたことを、今度は僕がつぶやいていた。
もう一度、LINEを開いた。
[メールはまだ開いていません]
書いて、消した。
[ノートパソコンを探してみたのですが、難しそうです]
それも消した。
[今日は無理しないでください]
その文も消した。
何を送っても、負担になりそうな気がした。
僕はスマートフォンを裏返し、テーブルの上に置いた。
そのとき、カフェの扉が開き、小さな鈴の音が鳴った。
顔を上げると、美咲さんが立っていた。
「……」
美咲さんも僕を見て、少し足を止めた。
それから、僕の席へ近づいてきた。
「いてくださって、よかったです」
「僕を探しに来たんですか」
「もしかしたら、と思って」
「でも……どうして僕がここにいるとわかったんですか」
美咲さんは、すぐには答えなかった。
少し困ったように笑った。
「なんとなく、いる気がしたんです」
「なんとなくですか」
「はい。ここなら……ハルさんがいる気がして」
その言葉に、僕がどう返せばいいのか迷っていると、美咲さんが続けて尋ねた。
「いつ来たんですか」
「少し前です」
「そうですか。タイミングが合ってよかったです」
美咲さんは、鞄を隣の席に置いた。
いつもより少し、重そうに見えた。
「これ、持ってきました」
彼女は鞄から、ノートパソコンを取り出した。
「それは……」
「家に、今は使っていないノートパソコンがあったんです」
「初期化してあるので、私の個人的な資料は入っていません」
「これを使ってください。スキャンした資料を確認しないといけないのに、ノートパソコンがないと困りませんか」
「いえ、でも……そこまでしていただく必要はありません」
「お貸しするだけです」
「差し上げるわけではありませんし」
僕は、少し笑ってしまった。
「本当に、お借りしてもいいんですか」
「はい」
僕はノートパソコンの電源を入れた。
古い予備のノートパソコンなのだろうと思っていた。
けれど画面は思っていたより早く点き、キーボードもほとんど擦れていなかった。
「これが……使っていないノートパソコンですか」
思わずそう尋ねると、美咲さんは視線をそらした。
「今は、です」
「今は?」
「今は使っていません」
それ以上は、尋ねなかった。
美咲さんが、レジの横を指した。
「Wi-Fiは、あそこに書いてあるものでつながると思います」
「あそこですか」
「はい。この前、私が使ったのと同じです。IDとパスワードが書いてあります」
「ああ、あのときのWi-Fiですね」
「はい」
僕はノートパソコンをカフェのWi-Fiにつないだ。
「宿で大きなファイルを受け取るのは少し不安なので、ここで受け取れるものは全部ダウンロードしておいたほうがよさそうです」
僕は、まずファイルのダウンロードから始めた。
そのとき、美咲さんは僕の前のカップを見た。
「今日もアイスアメリカーノですか」
「はい」
僕はカップを一度見下ろした。
「韓国では、アイスアメリカーノを略して、『アア』って呼ぶことがあるんです。アイスのアと、アメリカーノのアで」
「アア……」
美咲さんは小さく繰り返してから、笑った。
「初めて聞きました」
「初めて聞くと、少し変ですよね」
「いいえ。覚えやすいです」
短いやり取りだった。
それでも、そのおかげで空気が少しやわらいだ。
だから僕は、慎重に尋ねることができた。
「昨日、家で何かあったんですか」
美咲さんは、すぐには答えなかった。
窓の外を一度見て、それからテーブルの上へ視線を落とした。
「母と、少し話しました」
「早苗さんと」
「はい」
「もう、やめてもいいんじゃないかって言われました」
「やめても……」
「祖母のことに、今さらまた触れていいのかって」
「……」
「でも、私には少し、わからないんです。祖母のことだからこそ、知りたくなることもあると思うんです。それに、もうずいぶん昔のことでもありますし」
美咲さんは、指先でカップの縁に軽く触れた。
「だから、母がどうしてそこまで心配するのか……正直、まだよくわかりません」
僕は黙っていた。
それ以上、何かを言うのは難しかった。
「それでも、ここで止まることはできませんでした」
「だから……もう少しだけ、一緒に確かめてみましょう」
「はい。そうしましょう」
僕はうなずいた。
「ただ、今日はここに長くいるのは難しいです」
「では、今日は昨日送っていただいた写真だけ、簡単に確認しましょう」
美咲さんはしばらく僕を見てから、小さくうなずいた。
「はい。私も気になります。その手紙が、どんなものなのか」
僕は添付ファイルをクリックした。
画面の上に、古い封筒の写真が浮かび上がった。




