第38話 母からの電話
「お母さんですか」
「はい」
短く答えてから、美咲さんは電話に出た。
「うん、お母さん」
僕は一歩、後ろへ下がった。
相手の声は聞こえなかったが、美咲さんの返事は聞こえた。
「まだ外」
少し間があった。
「うん。ハルさんも一緒にいる」
また沈黙があった。
「そういうことじゃない。危ないことじゃなかったよ」
美咲さんは、しばらく目を伏せた。
「……わかった。もう帰る」
通話はすぐに終わった。
美咲さんはスマートフォンを下ろしても、すぐには鞄に入れなかった。
「ずいぶん心配されていたみたいですね」
僕が言うと、美咲さんは小さく笑った。
「遅すぎるって」
「すみません」
「どうしてハルさんが謝るんですか」
「僕が一緒にいましたから」
「私が一緒に行くと言ったんです。寄ろうと言ったのも私ですし、手紙を見たいと思ったのも私です」
「それでも、今日はここまでにしたほうがよさそうです」
「私も、そう思います」
美咲さんはスマートフォンを鞄に入れた。
「ファイルの容量が大きいので、写真は家に着いたらメールで送りますね」
「はい」
「写真は、明日ゆっくり見ましょう」
「そうですね。僕も今日は読めそうにありません」
僕たちは車のある場所まで歩いた。
路地の外へ出ると、風が少し強くなっていた。
海のほうから吹いてくる風だった。
車はゆっくりと走り出した。
しばらく、言葉はなかった。
しばらくして、美咲さんが先に口を開いた。
「母は、怒っているわけじゃないんです」
「はい」
「ただ、心配しているんです」
「当然だと思います」
僕は前を見ながら言った。
「僕は、急に現れた外国人ですから。それに、こんな時間まで美咲さんと一緒にいましたし」
「そう見えることも、あるでしょうね」
少しして、彼女が言った。
「でも、それだけではないと思います」
「それだけではない、というのは」
「母には……急に、あまりにも多くのことが戻ってきたように見えているのかもしれません」
「多くのこと?」
「母は、末っ子なんです」
「末っ子ですか」
「はい。それも、かなり年の離れた末っ子だったそうです」
彼女は前を見たまま、話を続けた。
「母の上には、姉が何人かいました。みんな女の子だったそうです」
僕は黙って聞いていた。
「家の中では、最後は男の子だったらいい、という空気があったみたいです」
「けれど、生まれたのが早苗さんだったんですね」
「はい」
美咲さんは小さく笑った。
「また女の子だったんです」
その言葉は、冗談のようには聞こえなかった。
「お姉さんたちは?」
「みんな、この町を出ました。結婚したり、仕事で別の場所へ行ったりして」
「それで、早苗さんだけが残られたんですか」
「はい」
車が信号の前で止まった。
赤い光がフロントガラスに映った。
「父は、もともと祖父の写真館で働いていた人なんです」
僕は美咲さんのほうを見た。
「藤井写真館で?」
「見習いとして入って、祖父から写真の仕事を教わったと聞いています」
「修一さんに……」
「はい」
信号が変わった。
車がまた動き出した。
「それから母と結婚して、藤井家に入ったんです」
「婿養子のような形ですか」
「そういう形だったみたいです」
美咲さんは少し考えてから言った。
「だから母は、藤井という名前と、祖母の過去に敏感なのだと思います」
「千代子さんの過去にですか」
「はい」
美咲さんは、ハンドルを少し持ち直した。
僕は彼女に、慎重に言った。
「今日のことで、もっと心配されるでしょうね」
「そうだと思います」
「大丈夫ですか」
「大丈夫だと言いたいんですけど……」
美咲さんはそこで言葉を止めた。
そして、小さく笑った。
「正直、よくわかりません」
僕は、それ以上尋ねなかった。
「写真は、無理に送らなくても大丈夫です。明日、ゆっくり送ってください」
「いいえ。家に帰ったらすぐに送ります」
「はい。ありがとうございます」
「ただ、すぐに開かないでください。一人で先に読むのはなしですよ」
「約束します」
美咲さんはその言葉に、小さくうなずいた。
しばらくして、車は僕の泊まっている場所の近くで止まった。
僕はシートベルトを外した。
「明日は……」
どこで会えばいいのかと尋ねようとした僕に、美咲さんが先に言った。
「場所は、あとでLINEで決めましょう」
「わかりました」
僕は車を降りた。
ドアを閉める前に、美咲さんが言った。
「今日は、お疲れさまでした」
「美咲さんも」
「気をつけて戻ってください」
「はい。美咲さんも、気をつけて帰ってください」
車のドアが閉まった。
美咲さんは軽く頭を下げてから、車を出した。
僕はその車が角を曲がって見えなくなるまで、そこに立っていた。
宿へ戻り、軽くシャワーを浴びたあと、僕はスマートフォンをそばに置いて待った。
けれど、しばらく待っても連絡は来なかった。
メールボックスを何度か確認したが、まだ何も届いていなかった。
少し横になってから、また起き上がった。
水をひと口飲んでいると、スマートフォンが鳴った。
美咲さんからのLINEだった。
[遅くなってすみません]
すぐに次のメッセージが表示された。
[メールを送りました]
僕はメールボックスを確認した。
美咲さんの名前があり、添付ファイルがついていた。
封筒と手紙の写真だろう。
僕は約束どおり、開かなかった。
LINEに戻り、短く返事を送った。
[ありがとうございます]
少しためらってから、もう一行を打った。
[こんな時間ですが、大丈夫ですか]
送信したあと、画面をそのまま見ていた。
すぐには返事が来なかった。
数分ほどたったころ、新しいメッセージが表示された。
[大丈夫です]
その下に、少し遅れてもう一行が加わった。
[でも、明日は少し難しいかもしれません]
しばらくして、さらに一行。
[すみません]
僕はその文を、しばらく見つめていた。
それは、ただの予定変更かもしれなかった。
けれど、そうとだけは思えなかった。
僕は返事を書こうとして、消した。
もう一度書いて、また消した。
結局、短く送った。
[わかりました]
そして少ししてから、もう一行を送った。
[無理しないでください]
今度は、返事が来なかった。
僕はスマートフォンを見つめた。
[でも、明日は少し難しいかもしれません]
[すみません]
その二行の向こうに、僕の知らない藤井家の夜があるような気がした。




