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鞆の浦にて、千代子と ――海を渡った写真と、二つの名前――  作者: catseye
第二部 鞆の海を忘れられなかった男
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第37話 死んだことにされた人

低い門扉が、内側から開いた。


門の内側から出てきたのは、年配の女性だった。


彼女は僕たちを見て、しばらく足を止めた。


「何か、御用ですか」


美咲さんが先に一歩前へ出た。


「突然すみません。古い記録を調べていて、ここまで来ました」


女性の視線が、美咲さんへ移った。


「昭和二十年、釜山での資料です」


美咲さんに目で促され、僕はスマートフォンを取り出した。


幸い、ここへ来る前に、そのファイルだけは自分の携帯に入れておいた。


「この部分です」


僕は、あえて長くは話さなかった。


僕の外国人の発音で、彼女を警戒させてしまうかもしれない。


今は、美咲さんに話を任せるべきだった。


住所と名前を拡大して見せると、女性は画面をのぞき込んだ。


最初は、特に表情を変えなかった。


けれどすぐに、その目がわずかに細くなった。


「……この名前」


声が低くなった。


美咲さんは、それ以上近づかなかった。


彼女が小さくつぶやいた。


「浜野フミ」


「もしかして、ご存じの方ですか」


女性は、すぐには答えなかった。


僕は表札を見た。


古い表札には、同じ名字が残っていた。


浜野。


スキャン資料にあった、日本人女性の名字だった。


「私は、直接その人を知っているわけではありません」


そして、少し息を整えた。


「でも、父から聞いたことがあります」


美咲さんの手が、スマートフォンを持ったまま止まった。


「お父様からですか」


女性はうなずいた。


「父の妹だった人です」


父の妹。


つまり、この女性にとっては叔母にあたる人だった。


「本当に申し訳ありません。浜野フミさんについて、少しでも教えていただけないでしょうか。祖母の過去を知りたくて、ここまで来ました」


美咲さんの言葉に、女性は口を開いた。


「これは、父から聞いた話です」


彼女は低い声で言った。


「私が直接見たわけではありません。どこまで正確なのかもわかりません。でも、父は何度か同じ話をしました」


その声を聞きながら、僕はこの場所で昔あったことを思い浮かべた。


◆◆◆


浜野フミの兄、浜野清一は忙しく動いていた。


「準備はできているのか」


母は部屋をもう一度掃いていた。


父は黙って座っていたが、いつもより何度も襟元を直していた。


清一も同じだった。


朝鮮の京城へ働きに行っていた妹が、男を連れて来るという。


手紙には、何度かその男のことが書かれていた。


いい人だ。


まじめな人だ。


東京の出だと言っていたはずだ。

清一は、なんとなくそう思っていた。


妹は、その男の出身を尋ねられるたびに、どこか曖昧にしていた。


名前は、高山明夫。


その日の午後、フミが男を連れてきた。


清一は、門の前でその男を初めて見た。


男は洋服を着ていた。


新しいものではなかったが、きちんとアイロンがかけられていた。


ネクタイも締め、髪も整えていた。


東京の人間は、ああいうふうにするのか。


このあたりの言葉は、ひとつも出なかった。


まるでラジオから流れてくる声を聞いているようだった。


フミは、男の隣に座っていた。


父と母は、二人と向かい合って座った。


清一は、少し離れたところからそれを見ていた。


妹が緊張していることはわかった。


膝の上に置いた手が、少し固くなっていた。


けれどフミは、うつむいてはいなかった。


逃げようとしている人の顔でもなかった。


男も同じだった。


緊張していたが、背を丸めてはいなかった。


父が先に尋ねた。


「頼もしそうな男だな。ご両親は何をしておられる」


男は、少し頭を下げた。


「父は早くに亡くなりました」


その言葉に、清一は父と母の表情が少し固くなるのを見た。


「母が市場で商いをしながら、四人のきょうだいを育ててくれました」


部屋の空気が、少し重くなった。


清一は、父の眉がわずかに動くのを見た。


よい家柄ではない。


それは、言われなくてもわかった。


「うむ。では、学歴はどうだ」


「学校は普通学校まででした」


男は少し言葉を止め、それから付け加えた。


「その後は工場の見習いに入り、旋盤を覚えました」


「旋盤?」


「はい。今は京城の機械部品工場で働いています。軸受の部品も扱うところです」


「危ない仕事ではないのか」


「気をつけています」


清一は、内心少し落胆した。


手紙の中でフミが語っていた男は、もう少し立派な人物のように感じられたからだ。


その言葉は間違っていないのかもしれない。


けれど家のことや仕事を聞くかぎり、条件がよいとは言えなかった。


父も、そう思ったはずだった。


「娘とは、どうやって知り合った」


「工場で知り合いました」


清一は妹を一度見た。


フミはうつむいていた。


口を閉じ、じっと座っていた。


「ふむ。そうか」


父は、男のことが気に入らないように見えた。


そのとき、高山明夫が父をまっすぐ見た。


「立派な家ではありません」


部屋の中が静かになった。


「けれど、働くことはできます」


彼は隣に座るフミを一度見た。


そして、また父へ向かって頭を下げた。


「フミさんは、必ず私が責任を持って守ります」


その言葉は、虚勢のようには聞こえなかった。


清一はそのとき初めて、妹が彼をいい人だと言った理由が、少しわかった気がした。


「ふむ。まあ、気概はあるな」


父はそう言ってから、ふと思い出したように尋ねた。


「ところで、お父上が早くに亡くなったと言ったが」


「はい」


「では、お父上はどこの出身だ。話し方を聞くと東のほうの人間に思える。東京か」


その瞬間、高山明夫がわずかに口を閉ざした。


そのとき清一は、妹が男に目配せするのを見た。


言わないで。


黙っていて。


そう告げているようだった。


「どうした」


何も言わずにいると、父がもう一度尋ねた。


やがて父は、急に慎重な声で言った。


「娘と結婚する前に、一度、君の戸籍謄本を見せてもらえるか。いや、京城から来たというだけで、別にどうということはないんだが、少し気になってな。近ごろは朝鮮でも、日本式の姓や名を名乗れるそうだから」


戸籍謄本を見せろ。


そう言われたようなものだった。


その言葉に、高山明夫と妹の表情が固まるのが見えた。


父の目が、そこで冷たく沈んだ。


部屋の空気が冷えた。


「お前」


父の呼びかけに、高山明夫は顔を上げられなかった。


「もしかして……朝鮮人か」


フミが、膝の上の手を握りしめた。


清一はそのとき、ようやく気づいた。


なぜフミが、手紙に男の出身を詳しく書かなかったのか。


「……はい」


その一言で、部屋の中のすべてが変わった。


「まさか、朝鮮人……?」


母が息をのむのが見えた。


父の顔が赤くなった。


「出ていけ」


その言葉は短かった。


けれど、それだけで十分だった。


フミが顔を上げた。


「お父さん」


「出ていけと言った」


男はもう一度、頭を下げた。


「私は……」


「朝鮮人に娘はやれん」


清一は悟った。


父は、男の貧しさには耐えた。


学歴が低いことにも耐えた。


仕事が立派とは言えないことにも耐えた。


けれど、その男が朝鮮人だったという事実だけは、耐えられなかった。


「お前は残れ」


父はフミに言った。


「その男だけ出ていけばいい。お前は残れ」


しかし、フミは立ち上がった。


顔は青ざめていた。


けれど、迷いはなかった。


「これまで、ありがとうございました」


その言葉を残し、フミは高山明夫の隣に立った。


高山明夫も立ち上がり、最後まで礼を失うまいとするように、深く頭を下げた。


「何をしている。連れ戻せ!」


父の怒鳴り声に、清一は駆け寄って妹の腕をつかんだ。


「どうして言わなかった」


するとフミは、小さな声で言った。


「言えば、こうなるとわかっていました」


その言葉は、恨みのようにも聞こえ、謝罪のようにも聞こえたという。


◆◆◆


年配の女性の声は、そこでしばらく途切れた。


僕はそこで初めて、自分が息を詰めて聞いていたことに気づいた。


美咲さんも、何も言わなかった。


路地は静かだった。


さっきまで遠くに聞こえていた車の音も、不思議なほど遠くなっていた。


女性は低い門扉の向こうに立ったまま言った。


「その翌日、その人は朝鮮へ戻ったそうです」


「その男の人と一緒に」


「それから、家ではその人の名前を出さなくなったそうです」


「いなかったことにされた、ということですか」


美咲さんが慎重に尋ねた。


女性は少し考えた。


そして、ゆっくり首を横に振った。


「いいえ」


彼女は、もう一度言った。


「死んだことにされたんです」


その言葉は、不思議なほど長く残った。


「そのあと、連絡はなかったんですか」


すると女性は少し考えてから言った。


「終戦のあと……一度、手紙が来たと、父が話したことがありました」


「朝鮮からですか」


「そう聞いています」


「どんな手紙だったのでしょうか」


そこで彼女が僕を見た。


「すみません。私、少し気が急いてしまいました」


「外国の方?」


彼女は、そこでようやく僕の発音に気づいたようだった。


僕は自分の名前を言い、なぜここまで来たのかを簡単に説明した。


「不思議なこともあるものですね」


彼女は僕が見せた写真を見てから、隣の美咲さんをちらりと見た。


「お祖母様に似ていらっしゃいますね」


その言葉に、美咲さんが少し笑って言った。


「背以外は……」


小さなつぶやきが、僕の耳に届いた。


「あなた方のご縁も、不思議なものですね」


女性が、僕たちに向かって言った。


「あの手紙、父の遺品の中に……あるかもしれません」


「今、確認していただくことはできますか」


そう尋ねてから、僕はすぐに急ぎすぎたことに気づいた。


「すみません。突然こんなお願いをして……」


女性は僕を見た。


そして静かに言った。


「持って帰っていただくことはできません」


「はい。もちろんです」


「それに、すぐに出てくるかもしれませんし、時間がかかるかもしれません」


美咲さんが頭を下げた。


「探していただけるだけで、ありがたいです」


「少し待っていてください」


女性は中へ戻っていった。


「ここまでお願いして、よかったのでしょうか」


美咲さんが低く言った。


「僕にもわかりません」


僕は正直に答えた。


「でも、このまま帰っていたら後悔したと思います」


「そうですね」


僕たちは、しばらく黙って待った。


思ったより長い時間が過ぎた。


奥から何かを開ける音や、箱を動かすような音が聞こえた。


僕は携帯の画面を確認した。


時間が少しずつ過ぎていた。


「だいぶ時間が経っていますね」


「はい」


美咲さんは短く答えた。


その声には、ごく小さな心配が混じっていた。


しばらくして、奥からまた足音が聞こえた。


女性が戻ってきた。


その手には、古い封筒がひとつと、折られた紙があった。


封筒は黄ばんでいた。


端は擦り切れ、文字はところどころ薄くなっていた。


女性はそれを、両手で持っていた。


「たぶん、これだと思います」


僕たちは同時に息をのんだ。


「写真を撮ってもよろしいですか」


美咲さんが尋ねた。


「ええ」


美咲さんは、慎重に携帯を構えた。


まず封筒を撮った。


そこにある日付らしい文字と、差出地をすべて収めた。


それから、折られた手紙をとても慎重に広げた。


紙は思ったより薄かった。


少し強く持つだけで破れてしまいそうだった。


僕は手を出さず、美咲さんに任せた。


彼女は丁寧に写真を撮った。


文字がかすれているところは、もう一度拡大して撮った。


美咲さんは最後の一枚を撮り終えると、頭を下げた。


「本当にありがとうございます」


僕も深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


女性は手紙を、また慎重に折った。


そして封筒と一緒に、胸元に抱えるように持った。


「父は、これを捨てられなかったんです」


彼女が言った。


「あの人を死んだことにした家で、父だけは最後まで捨てられなかったんだと思います」


僕は何も言えなかった。


美咲さんも同じだった。


僕たちはもう一度礼を言い、低い門扉の前を離れた。


門扉がゆっくり閉まった。


路地を抜けたころ、空はもう薄く暗くなり始めていた。


「しまった。ずいぶん長くお時間を取らせてしまいましたね」


僕がそう言い終わるかどうかというところで、美咲さんの携帯が鳴った。


美咲さんは画面を見た。


その名前を見た瞬間、彼女の表情がわずかに固まった。


僕は偶然、携帯の画面に表示された名前を見てしまった。


母。


彼女は小さく息を吸い込んだ。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


本作は公募締切後も、引き続き毎日一話ずつ更新していく予定です。

物語はまだ続きますので、最後までお付き合いいただけましたら幸いです。


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