第36話 もうひとつの港
翌日、美咲さんは車で来てくれた。
車は小ぶりだった。
それでも、二人で移動するには十分だった。
「住所を探すなら、車のほうがいいと思います」
カフェの前で会った美咲さんが、自分の車を指した。
「大丈夫ですか」
「はい。鞆からそんなに遠くありませんから」
「ありがとうございます」
僕は車に乗ろうとした。
けれど、その瞬間少し戸惑った。
運転席が右側にあった。
「大丈夫ですか」
「あ、はい。少し戸惑いました」
「あ、そうか。韓国とは逆なんですよね」
僕は助手席に座った。
シートベルトを締めても、どこか少し落ち着かなかった。
車はゆっくり道路へ出た。
車は当然のように、左側の車線を進んでいく。
日本に来てから、何度も見てきた風景だった。
けれど車の中に座り、その流れの中に入ってみると、ただ見ているだけとは違っていた。
「かなり違和感がありますか」
「運転は、美咲さんにお願いするしかなさそうです」
「はい。任せてください」
車は港町を抜け、海の見える道へ入った。
はじめは建物のあいだに切れ端のように見えていた海が、あるところから窓の外に長く広がった。
穏やかな海だった。
遠くには、小さな島々が低く横たわっていた。
「あちらが瀬戸内海です」
美咲さんが言った。
僕はすぐには答えられず、しばらく窓の外だけを見ていた。
韓国でも、海はたくさん見た。
釜山の海も、仁川の海もあった。
海軍にいたころに見た海もあった。
けれど、いま目の前にある海は、少し違っていた。
何が違うのかは、うまく言えなかった。ただ、美しい海だった。
「海というより、大きな川のようにも見えます」
「そう言う人もいます。でも島があるので、見る場所によって全然違って見えるんです」
車は海沿いを進み、それからまた町のほうへ入った。
低い屋根が続いていた。
細い路地が山のほうへ上がっていて、そのあいだに階段が見えた。
港の近くには、古い店と新しく改装された建物が並んでいた。
僕はスキャン資料の中にあった住所を思い出した。
それはもう、画面の中の文字ではなく、実際の道と坂と海に変わりつつあった。
「ここで暮らしていた人が、当時の朝鮮まで行ったということですね。仕事を探して朝鮮へ渡ったのでしょうか」
僕がつぶやくと、美咲さんは少しのあいだ答えなかった。
何と言えばいいのか、考えているようだった。
「その可能性は高いと思います」
そのとき、車が坂の下にある駐車場に止まった。
「上に少し寄っていってもいいですか」
美咲さんが言った。
「住所は下のほうにあるみたいですが」
「はい。でも上から町を見ると、道の形が少しわかります。それに……」
彼女は一度、言葉を止めた。
「せっかくここまで来たので、少し寄っていってもいいですか。この町に来たら、一度は上っておきたい場所なんです」
僕はうなずいた。
「見てみたいです」
僕たちは坂道を上った。
道は思ったより急だった。
階段の横には古い塀があり、その向こうには屋根が重なって見えた。
海は、振り返るたびに少しずつ広くなった。
最初は路地の先に引っかかった青い切れ端のように見え、もう少し上ると、屋根のあいだに長く横たわる水の道のように見えた。
少し息が上がったころ、美咲さんが歩く速さを落とした。
「大丈夫ですか」
「はい。釜山にも階段は多いです」
「そうなんですね」
美咲さんは小さく笑った。
僕たちはもう少し上った。
そして、あるところで視界が開けた。
海があった。
下には港が見えた。
小さな船が停まっていて、その先には水の道が続いていた。
島々が幾重にも重なり、そのあいだを淡い光が通っていた。
屋根と路地と寺の屋根と、その下を流れる水。
一枚の絵のようだった。
僕はしばらく言葉を忘れた。
美咲さんは僕の隣に立ち、同じ方向を見ていた。
「ここが好きなんです」
彼女が言った。
「調べに来たのに、こんなことを言っていいのかわかりませんけど」
「大丈夫です」
僕はゆっくり言った。
「祖父が残した書類が、こんな場所につながっているとは思いませんでした」
美咲さんは少し頭を下げた。
「私もです」
風が吹いた。
遠くから、船のエンジンの音が聞こえた。
とても小さな音だった。
けれどその音は、ここが観光写真の中の景色ではなく、今も生きている港なのだと教えてくれるようだった。
「もう少し上ると、お寺があります」
美咲さんが言った。
「そこにも、少し寄っていってもいいですか」
「もちろんです」
僕たちは小さな境内へ入った。
観光客が何人か、静かに行き来していた。
やがて、海に向かって開けた場所を見つけた。
「ここで手を合わせていきましょう」
僕と美咲さんは、そこで手を合わせた。
何を願えばいいのか、少し考えた。
そして結局、いちばん単純なことを願った。
祖父のことを、少しでも知ることができますように。
千代子さんのことを、少しでもわかりますように。
目を開けたとき、美咲さんはまだ手を合わせていた。
思ったより長かった。
僕は待った。
彼女がゆっくり手を下ろしたとき、僕も控えめに尋ねた。
「何をお願いしたんですか」
美咲さんは、一瞬僕を見た。
そして少し視線をそらした。
「祖母のことが、少しでもわかりますように、って」
「そうですか」
「はい」
彼女はそう言って、また海のほうを見た。
けれど、なぜかそれだけではないような気がした。
僕はそう感じたが、尋ねなかった。
僕たちはまた下へ降りた。
下り道は、上るときより少し楽だった。
けれど気持ちは少し重かった。
これから、資料の中にあった住所を探しに行かなければならない。
何かの痕跡を見つけることができるのだろうか。
そのとき、美咲さんの携帯が短く鳴った。
彼女は画面を確認し、少し手を止めた。
「何かありましたか」
「母です」
「早苗さんですか」
美咲さんはうなずいた。
画面には、短いメッセージが出ていた。
僕は内容を見ないように視線をそらした。
けれど、美咲さんの表情がほんの少し変わったことはわかった。
「心配されているんですか」
「たぶん」
彼女は携帯をバッグにしまった。
「母は、昔から少し心配性なんです」
僕たちは、住所が示す路地へ入った。
地図アプリは、細い道に入るたび、何度も道順を計算し直した。
片側には古い石垣があり、もう片側には新しい家があった。
住所は、まだ地図の上に残っていた。
けれど、そこにあった家は昔のままではなかった。
「ここ……だと思います」
美咲さんが足を止めた。
僕はスキャン資料の住所と、目の前の地番を見比べた。
そこには、新しく建てられた小さな住宅があった。
古い家は、もう残っていなかった。
「変わってしまったんですね」
「はい」
美咲さんは少し残念そうに言った。
そのときだった。
彼女が隣の家のほうを見た。
低い塀の向こうに、古い表札が掛かっていた。
日に焼けて色はあせていたが、文字はまだ読めた。
美咲さんが小さく息をのんだ。
「……待ってください」
「どうしました?」
彼女は表札を指した。
「この名字、資料にありました」
僕は、その指先を追った。
そこには、スキャン資料の中で、日本人女性の実家の欄に残っていた名字があった。
「まだ終わっていませんね」
僕がそう言った瞬間だった。
低い門扉が、内側から開いた。




