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鞆の浦にて、千代子と ――海を渡った写真と、二つの名前――  作者: catseye
第二部 鞆の海を忘れられなかった男
35/40

第35話 別の書類

昨日と同じカフェに、僕は少し早く着いていた。


どうしよう。


心の中で、そうつぶやいた。


母から、朝早くメッセージが来ていた。


指を少し痛めてしまって、しばらく追加のスキャンを送るのは難しい、という内容だった。


僕は、無理しないでほしいと返した。


しばらくして、カフェの扉が開いた。


美咲さんが入ってきた。


彼女は僕を見つけると、まっすぐ席へ来た。


「お待たせしました」


「いえ、僕も少し前に来たところです」


美咲さんが席に着くと、僕は少し言葉を選んだ。


けれど、結局そのまま言うしかなかった。


「すみません。母が指を少し痛めたそうです。それで、スキャン作業が遅れそうです」


「指を……」


美咲さんは小さく繰り返した。


「それは……仕方ありませんね」


「指を痛める前に作業してくれた分はあります」


美咲さんはバッグからACアダプターを取り出した。


けれど、彼女はすぐにはコンセントに差さなかった。


席を立ち、店の奥にいる人のところへ行った。


低い声でいくつか言葉を交わしてから、戻ってきた美咲さんが言った。


「壁際の席なら使ってもいいそうです」


僕たちは荷物を持って、壁際の席へ移った。


ノートパソコンを開き、電源をつないだ。


「韓国では、カフェでノートパソコンを使ったり、充電したりする人が多いんです」


「時々、そこまでしていいのかなと思うこともありました。でも周りはあまり気にしていなくて、僕のほうが変なのかと思っていました」


「でも日本に来てみると、僕が変だったわけでもなさそうです」


「日本でも、場所によりますよ。電源を使えるカフェもありますし」


彼女は、コンセントにつながれたアダプターを一度見た。


「ただ、こういう小さなお店だと、先に聞いたほうが安心するだけです」


ノートパソコンの画面が明るくなった。


昨日と同じようにログインした。


昨日よりは、少し慣れて進めることができた。


「母が送ってくれたスキャンです」


スキャン画像は三十枚ほどあった。


「祖父は、かなり忙しくしていたみたいですね」


そこにあるのは、主に商会の仕事に関わるものだった。


「書かれている金額を見ると、当時としてはかなり大きな額のように見えます」


次のページへ進んだ。


領収書が見えた。


「軍が発行した領収書のようですね。たぶん、前の取引と関係しているのでしょう。戦況が厳しくなるにつれて、軍に納める品物も扱うようになったのでしょうか」


「戦争が深くなると、そういう取引も増えていったのかもしれません」


「軍に納める品物なら、動くお金も大きかったでしょうし」


僕たちは続く書類を見た。


「佐伯商会が軍の納入契約を受けて、その品物を朝鮮人の仲介人である朴相吉という人から仕入れ、また軍へ納めていた形のようです」


「そうですね。ここにある記録を見ると、朴さんが安い仕入れ値で合わせてくれたおかげで、佐伯商会にも利益が出たと書かれています。ここに出てくる朴さんは、たぶん朴相吉のことでしょう」


僕はスキャンされた書類をさらに確認した。


「ここに書かれているのは、主に金を稼ぐ話ですね。でも祖父は、ただ大きく稼ぎたかっただけではなかったのかもしれません」


美咲さんが僕を見た。


「千代子さんの前に、ちゃんと立てる人間になりたかったのかもしれません」


美咲さんは、すぐには答えなかった。


けれどやがて、僕の考えに同意するように口を開いた。


「そうかもしれません。ああいうことが、あったのですから」


何があったのかは、あえて言わなかった。


「今あるのは、これで全部なんですよね」


「はい」


「では、最初に送られてきた昭和二十年の資料を見てみませんか」


「それがいいと思います。ただ、あれは日記というより、持っていた資料をまとめたもののようなので、千代子さんに関わる話はあまりないかもしれません」


「でも、佐伯さんがそのころ何をしていたのかを知る手がかりにはなると思います」


「そうですね」


実際、今できることはそれしかなかった。


僕は最初のスキャン資料へ戻った。


「これも、普通の商取引の書類のようですね」


「これだけを見ても、すぐにはわかりませんね。日付が書かれていないものも多いですし」


僕たちは、だんだん早い速度でスキャン画像を進めていった。


その途中で、ふと手が止まった。


「これ、もしかして……」


一枚の書類には、日本人女性らしい名前が並んでいた。


そして、その横には夫の名前があった。


「朝鮮人の名前ではありませんか」


「そうみたいです。少し待ってください。ここにも何かあります」


下のほうにある資料を、もう少し大きく拡大した。


「これは、何と読めばいいのでしょう」


「預けた品、と言えばいいと思います。その横にあるのは金額ですね」


美咲さんが目を細めた。


「この人たちが、お金や物を預かったということですか。どうしてでしょう。それに、佐伯さんはなぜこの記録を持っていたのでしょうか」


僕は少し考えてから言った。


「佐伯商会が、人と物、それからお金の流れをつなぐ仕事もしていたのかもしれません」


「はい」


「だから、こういう記録が祖父の手元に残ったのかもしれません」


美咲さんが慎重に言った。


「日本へ戻る人たちが、朝鮮に残る知人を通して財産を守ろうとした、ということでしょうか。そして佐伯商会が、それを仲介していた」


「まだわかりません。でも、そう見ることもできると思います。朝鮮人と結婚していた日本人なら、あの状況では、財産を預けられる相手になり得たのかもしれません」


「もう少し見てみましょう」


「これは登記の記録ですね。不動産の名義を移したのでしょうか」


「そうかもしれません。それから、これは何でしょう」


「契約書のようですね。つまり、さっきの不動産登記と関係のある契約書で……」


僕は、その契約書の片隅にある男の名前を見た。


朴相吉。


最初は、そのまま見過ごしかけた。


けれどその名前は、あとに続くメモの中に何度も出てきた。


「また、この人ですね」


美咲さんが書類の上に指を置いた。


「朴相吉……」


彼女は考えるように、少し目を細めた。


「この名前、前にも出てきませんでしたか」


「前に、ですか。さっきの昭和十九年の祖父の記録にはありましたね」


「いえ。もっと前です」


「もっと前?」


「昭和十八年の手帳です。駐在所で、佐伯さんが取引書類を読まされたところに」


そう言われて、僕も記憶をたどった。


「……たしかに、出てきました。つまり、あの……」


僕がつぶやくと、美咲さんが慎重に言った。


「佐伯商店の取引書類にあった、朝鮮人の仲介人の名前でしたよね」


「はい。差出人が、パク・サンギルでした」


僕はしばらく考えた。


「佐伯商会とは、かなり長く取引していた人のようですね。もしかすると、昭和十八年より前からかもしれません」


僕たちは、しばらく黙った。


けれど、続けてスキャン画像を進めること以外にできることはなかった。


あるところで、美咲さんの目が止まった。


「これは……何て読むんですか?」


「パク・サンギル、です」


「さっきの朴相吉さんですか?」


「はい。漢字で書けば、朴相吉です」


美咲さんは、しばらく無言でその文字を見ていた。


「もう、日本語ではないんですね。メモの内容が、すべて朝鮮語だけで書かれています」


前の書類は、主に日本語で書かれていて、朝鮮語はところどころに出てくるだけだった。


けれど今見つかったメモは、全体がハングルだけで書かれていた。


「もう、朝鮮で日本語を必ず使わなければならない時代ではなくなっていたんでしょう」


「何と書かれているんですか」


僕は慎重にそれを読んだ。


「軍政庁のほうに知られれば、この件は続けるのが難しくなります。当分のあいだ、ほかの仲介人とは連絡を取らないでください。パク・サンギル」


「軍政庁?」


「終戦後、南の朝鮮は数年間、米軍政の下にありました」


美咲さんは、ゆっくりとうなずいた。


「少しわかる気がします。つまり、朴相吉と佐伯さんが、昭和二十年に何かの仕事を進めていたということですね」


僕が黙っていると、美咲さんが少し笑った。


「だんだん、推理小説みたいになってきましたね」


彼女は書類の上の名前を指した。


「犯人はこの人、みたいな」


そう言ってから、美咲さんはすぐに小さく首を振った。


「……あ、この人が犯人という意味ではないですけど」


僕も少し笑った。


「でも、手がかりではあるかもしれません」


その小さな笑いのあと、僕たちはまたスキャン画面を送った。


「これは、さっき見た、朝鮮人男性と結婚した日本人女性たちの身上書のようです。名前と住所、それから……あれ、この人……」


「どうしました?」


「画面を拡大してください」


そこには、内地の住所が書かれていた。


一度、別の言葉を書こうとして消したような跡もあった。


「本家……と書こうとして、消したんでしょうか」


「本家?」


「家の本筋という意味です。でもここでは、実家と書き直したように見えます」


僕は画面を見た。


たしかに、文字の上には小さく薄い線が残っていた。


「迷って書いた、ということですか」


「たぶん。どうしても書かなければならなかったのでしょう。取引書類や預かり証とつながっているなら、こういう記載が必要だったはずです」


美咲さんは、しばらくその住所を見ていた。


「この港町、鞆からそれほど遠くありません」


「行ける距離ですか」


「ええ。今も住所がそのまま残っているかはわかりません。でも、古い家なら、表札や地番が残っているかもしれません」


住所の横に書かれた名前と地名を、僕はもう一度見た。


書類の上の住所は、急に遠い過去のものではなくなった。


鞆の海の向こうに、もうひとつの港が見えた気がした。


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