第33話 いい人でした
「いい人でした」
美咲さんはそう言ってから、すぐには続きを話さなかった。
僕は急かさなかった。
修一さんは、美咲さんの祖父であり、千代子さんの夫だった。
その話を、簡単に聞くことはできなかった。
美咲さんは、カップを両手で包むように持っていた。
少しして、彼女が言った。
「よく話す人ではなかったと聞いています」
彼女は窓の外ではなく、カップの中を見ていた。
「でも、祖母を雑に扱う人でもなかったそうです」
「雑に扱う……」
僕は、彼女の言う日本語の意味を頭の中で追った。
まだ日本語が得意ではない僕には、少しわかりにくいところもあった。
それでも、彼女の言い方から、少しずつ意味は伝わってきた。
僕が小さく繰り返すと、美咲さんはうなずいた。
「祖母が話したがらないことを、無理に聞こうとしない人だったそうです」
その言葉は静かだった。
けれど、修一という人を説明するには、それだけでも十分な気がした。
「でも、何も見ていないふりをする人でもなかったそうです」
美咲さんは少し言葉を選んでから、続けた。
「その時代には、家のことは男が決めるものだという空気も、まだ残っていたはずです」
「でも祖父は、そういう考えを祖母に押しつける人ではなかったと聞いています」
「その時代の人たちから見れば、少し変わって見えたかもしれません」
「それに、二人は大きく争うこともなく暮らしていたそうです」
「町でも、二人を悪く言う人はあまりいなかったそうです」
そこで、美咲さんは少し止まった。
「だから、その二人は……」
言葉はそこで続かなかった。
千代子が幸せだったのか。
修一が、どんな夫だったのか。
そういうことは、簡単には言い切れないのだと、彼女自身も感じているようだった。
それでも、美咲さんは小さく言った。
「祖父は、本当にいい人だったんです」
しばらくして、美咲さんがもう一度口を開いた。
「ただ……」
そこまで言って、彼女は少しうつむいた。
「どうしました?」
「こんなことまで話していいのか、わからないんですけど」
「大丈夫です」
美咲さんは少し照れたような顔で言った。
「祖父、つまり修一さんは、その時代の男性としては、背が高いほうではなかったそうです」
思ってもいなかった話に、僕は思わず瞬きをした。
「反対に、祖母の千代子は、その時代の女性としては背が高いほうだったそうです」
美咲さんは、少しためらった。
「祖母の父、村上……」
そこで言葉が止まった。
僕は、大丈夫です、というつもりで小さくうなずいた。
美咲さんは、また話し始めた。
「その方が体格のいい人だったそうなので、祖母もそういうところを受け継いだのかもしれません」
「そうだったんですね」
「二人が並んで立つと、背丈がほとんど同じだったそうです。もしかすると、祖母のほうが少し高かったかもしれない、と」
彼女はそう言って、少し笑った。
「祖母は、かかとの低い靴をよく履いていたと聞きました」
僕はその姿を想像した。
修一の隣に立つ千代子。
そして、そこにあったはずの、かかとの低い靴。
言葉にしなくても、二人の間で通じていた小さな気遣い。
美咲さんはカップを見下ろしながら言った。
「だから……私は祖母の背ではなく、祖父の背を受け継いだみたいなんです」
その言葉は冗談のように聞こえたが、少しだけ本音も混じっているようだった。
僕は小さく笑った。
「そういう意味では、僕も祖母に似たのかもしれません」
美咲さんが僕を見た。
「ハルさんが、ですか」
「はい。僕の記憶の中の祖母は、小柄な人でしたから」
美咲さんは、少し意外そうだった。
「でも、ハルさんは背が高いほうじゃないんですか?」
「韓国は、若い世代と上の世代で、身長の差がけっこうあるんです」
美咲さんが首をかしげた。
「全体の平均で見れば、日本とそこまで大きく違わないかもしれません」
「でも、僕と同じくらいの世代の男性で見ると、僕はほとんど平均に近いです。強いて言えば、少しだけ高いくらいかもしれません」
美咲さんは、少し信じられないという顔をした。
僕はスマートフォンを取り出し、韓国男性の平均身長に関する資料を検索して見せた。
数字よりも、表の出典のほうが先に彼女の目に入ったようだった。
「こういう資料、かなり詳しいんですね」
「韓国では徴兵の関係で、二十歳前後の男性の身長データが、思ったより正確なんです」
その瞬間、美咲さんの関心が別のところへ移った。
「徴兵……」
彼女が小さく繰り返した。
僕はスマートフォンの画面を消した。
美咲さんが、慎重に尋ねた。
「じゃあ、ハルさんも軍隊に行ったんですか?」
「はい」
答えは短かった。
美咲さんは、しばらく僕を見た。
「銃も撃ったことがあるんですか?」
僕は少し答えを選んでから、小さくうなずいた。
「あります」
そして、少し遅れて付け加えた。
「ただ、ゲームや映画で見ていたようなものではありませんでした」
美咲さんが、少し目を見開いた。
「それは……どういう意味ですか?」




