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鞆の浦にて、千代子と ――海を渡った写真と、二つの名前――  作者: catseye
第二部 鞆の海を忘れられなかった男
32/40

第32話 もう一度見たい海

「あれ、これ……」


僕の視線が、ノートパソコンの画面の下へ向いた。


バッテリーの警告だった。


「残り時間が……」


美咲さんが、バッテリーの表示を確認した。


「すみません。ACアダプターを持ってきていなくて。こんなに長く見ることになるなら、ちゃんと充電もしておけばよかったですね」


「仕方ないです」


「昭和二十年の記録も見たかったんですけど……」


美咲さんは残念そうに言った。


「それは……日記というより、書類の束に近いものみたいですから。まずは二冊目、つまり昭和十九年のノートを確認してから、余裕を持って少しずつ見たほうがいいと思います」


「明日はACアダプターを持ってきます。ちゃんと充電しながら見ましょう」


「電源を使えるんですか」


「ここは知っているお店なので、お願いすれば使わせてもらえると思います」


彼女は少し、店の奥を見た。


「ただ、長い時間ここで作業するのは少し気になりますけど。それでも、今日よりは長く使えるはずです」


僕はノートパソコンの画面を、もう一度見た。


「鞆の海を、もう一度見たい。ただ、それだけだった。」


少しして、ノートパソコンの画面の光が消えた。


ノートパソコンをしまいながら、美咲さんが言った。


「少し、何か食べませんか」


そう言われて初めて、朝からまともに食べていなかったことを思い出した。


僕はうなずいた。


美咲さんはカフェを出ると、小さな食事処へ案内してくれた。


「ここ、おいしいんです」


鞆では鯛がよく出るのだという。


彼女は鯛めしを出す店を知っていた。


「地元の人でないと、あまり知らないところです」


観光客には少し見つけにくい店らしかった。


僕は礼を言った。


注文は美咲さんに任せた。


しばらくして、食事が運ばれてきた。


韓国で食べ慣れていた鯛とは、少し違う。


けれど、同じ鯛の料理だった。


僕たちは向かい合って食事をした。


美咲さんが、味はどうかと尋ねた。


「本当においしいです」


適当に言ったわけではなかった。


彼女が薦めるだけの店だった。


温かいご飯の上にのった鯛は、やわらかかった。


それを見て、ふと祖父の最期の言葉を思い出した。


あのとき聞いた言葉の意味を、美咲さんに尋ねてみようかと思った。


けれど、すぐに思い直した。


今、聞くことではなかった。


「本当においしいですね」


僕はもう一度、料理の味をほめた。


箸を止めずに食べた。


日本の箸は韓国のものと少し違っていたが、使うのに大きな不自由はなかった。


僕たちは、さっき読んだノートのことをほとんど話さなかった。


そのほうがよかった。


まだ、わからないことが多すぎた。


もう少し何かが見えてから、話したかった。


「今度は、別のカフェへ行きましょう」


美咲さんに案内されるまま、僕たちは歩いていた。


今度は、海が見えるほうへ歩いた。


観光客らしい人たちの姿が、ひとり、またひとりと見え始めた。


「あそこ、行ってみますか」


美咲さんが、近くの小さなカフェを指した。


窓際の席からは、鞆の海が見えた。


海を見るには、よい店だった。


席に着くと、店員がメニューを持ってきた。


美咲さんはメニューを見てから、僕を見た。


「ハルさんは、またアイスアメリカーノですか」


「はい」


返事が早すぎたのか、美咲さんが小さく笑った。


彼女は少し迷ってから言った。


「私は……今日はもう、アイスアメリカーノは無理です。すみません」


「謝ることじゃないです」


僕が笑って言うと、美咲さんも笑みを浮かべた。


美咲さんは今度は、甘いコーヒーを選んだ。


僕は、またアイスアメリカーノを注文した。


注文を終えたあと、僕たちは窓の外を見た。


海は近く、大きな波はなかった。


静かな水面の上を、船が通っていった。


美咲さんが先に言った。


「あれが、佐伯さんがもう一度見たかった海なんですね」


「そうですね。祖父が、本当にもう一度見たかった海です」


祖父の言葉は、遠回しにその気持ちを隠していた。


けれど本当の意味は、今僕が言ったとおりだった。


本当にもう一度見たかった海。


そして、それが海だけではなかったことも、僕にはわかっていた。


けれど、それを美咲さんの前で簡単に口にすることはできなかった。


いや、僕が言わなくても、彼女もわかっているはずだった。


僕たちはそれぞれのカップを前に、しばらく海を見ていた。


少しして、僕は慎重に尋ねた。


「修一さんは、どんな方だったんですか」


美咲さんが僕を見た。


言葉を探すように少し口元を動かしてから、窓の外へ視線を戻した。


美咲さんは、少し考えてから言った。


「いい人でした」


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