第31話 余白に残された言葉
続いて送られてきたスキャンは、多くなかった。
二冊目のノートの冒頭らしい、数枚だけだった。
「これで全部ですか?」
美咲さんの言葉に、僕は母から届いたメッセージアプリの内容を見せながら説明した。
「母が、二冊目のノートは最初の数ページだけ先に送ったそうです」
「続きは、少し休んでから送ると」
美咲さんは、何かを言いかけるように画面を見た。
けれど、すぐに視線を落とした。
「すみません。私、急がせてしまったでしょうか」
僕は首を横に振った。
「いいえ。僕も、今すぐ全部見たいです」
「でも、母も慣れていないので、少し待ったほうがいいと思います」
僕はメッセージアプリで母に返事を送った。
[無理しないで。今送ってくれた分から先に見る。続きは夜か明日で大丈夫。急がなくていい]
本当は、急いでいた。
けれど、急いでいるとは母に言えなかった。
返事を送ってから、僕はまたノートパソコンの画面へ視線を戻した。
一冊目のノートが、資料と記録の混じった束のように見えたのだとすれば、二冊目のノートは、もう少し日記に近かった。
美咲さんが次のスキャン画像を拡大した。
「昭和十九年 四月三日」
その下には、短い文が続いていた。
「初めの便りが戻ってきた」
僕たちは、その一文の上で同時に止まった。
続く行が、その便りが何だったのかを語っていた。
「内地との取引で福山の近くまで行く人に、鞆のあの家の様子だけを、それとなく見てきてもらった」
美咲さんが低く言った。
「祖母に、直接聞いたわけではないんですね」
「はい。直接近づいたわけでもなさそうです」
美咲さんが次の行を読んだ。
「大きな変わりはないという。あの人も、無事らしい」
その文は短かった。
僕は画面を見ながら言った。
「これが、一度目の便りですね」
美咲さんは小さくうなずいた。
僕は次のスキャン画像へ進んだ。
二枚目には、少しあとの日付が書かれていた。
「昭和十九年 四月十八日」
最初の記録から、半月ほどあとだった。
その下に、さっき見た一文がもう一度現れた。
「鞆からの便りは、これで二度目だった」
美咲さんはその文をもう一度読んでから、次の行へ目を移した。
「今回は、小さな紙を託した」
今度は、ただ安否を尋ねただけではなかった。
祖父の側から、何かを送ったのだ。
「長くは書けなかった。名も、場所も、はっきりとは書かなかった」
美咲さんが次の行を読んだ。
「紙は戻ってきた」
その一行だけで、僕たちはしばらく互いを見た。
美咲さんが続けて読んだ。
「余白に残されたひとつの言葉を見て、私は彼女もまた私を覚えているのだと知った」
ノートの本文は、そこで切れていた。
「いったい、どんなものをやり取りしていたんでしょう」
美咲さんがつぶやいた。
彼女はもどかしそうだった。
それは僕も同じだった。
けれど、どうすることもできず、僕は無意識に次の画像へ進んだ。
次の画像には、小さな紙が一枚、ノートのページの上に置かれたままスキャンされていた。
紙の端は少し斜めになっていて、下にはノートの罫線がうっすら見えていた。
美咲さんが先に気づいた。
「これ……もしかして、二人がやり取りしたメモじゃないでしょうか」
僕は画面を拡大した。
小さな紙の上のほうには、短い文があった。
「私は無事です。お変わりありませんか。」
その下には、少し間を空けて、カタカナで三つの言葉が書かれていた。
「タル。ピョル。パダ。」
美咲さんが低く言った。
「二人が話していた言葉ですよね」
僕はうなずいた。
千代子の手帳の中で、二人は夜の鞆の浦を歩いた。
佐伯は千代子に朝鮮語の言葉を教え、千代子はそれをぎこちなく繰り返していた。
その言葉が、数か月後のメモの上に、もう一度書かれていた。
美咲さんの視線は、今度は紙の下のほうへ移っていた。
メモの下には、別の筆跡で小さく文字が書かれていた。
「いつかまた、鞆の海を見に来てください。」
少しして、美咲さんの視線がさらに下へ落ちた。
「……ここ」
僕はもう一度、画面を見た。
千代子の返事の下、紙の端に近い余白だった。
最初は、しみのように見えた。
けれど画面を拡大すると、カタカナが三文字見えた。
サラン。
美咲さんが、その言葉を静かに読んだ。
「サラン……」
少しして、美咲さんが言った。
「これも手帳に出てきた朝鮮語、今でいう韓国語の言葉ですよね」
「はい」
「あの夜、祖母はこの言葉だけは、繰り返せませんでした」
けれど千代子は、数か月後、その言葉を小さなメモの余白に書いていた。
日本語の「愛」ではなく、佐伯が教えた朝鮮語の音で。
「ほかの人が見れば、意味のわからないカタカナだったかもしれません。でも祖父には、その三文字だけで十分だったのだと思います」
祖父がこの紙をノートのあいだに挟み、生涯残していた理由が、少しわかった気がした。
これは彼にとって、本当に大事なメモだったのだ。
僕たちは、しばらく何も言えなかった。
アイスアメリカーノの氷は、ほとんど溶けていた。
僕はふと、この紙がノートのページではないことをあらためて意識した。
挟み込まれていた別の紙だった。
だとすれば、もしかすると裏にも何か書かれているかもしれない。
スキャン画像には、表面しか写っていなかった。
僕はスマートフォンを手に取って、また置いた。
美咲さんが尋ねた。
「どうしました?」
「こういう紙は、裏にも何か書いてあるかもしれません」
美咲さんの表情が、少し固くなった。
「そうですね……」
「こういう紙が、ほかにもあるかもしれません。だから母に、裏面もスキャンしてもらおうと思ったんですが……」
僕は言葉を濁した。
今も母は、慣れないスキャン作業をしている。
そこに、挟まっている紙や書類の表と裏まで全部確かめてほしいと頼むのは、思ったより手間のかかることだった。
しばらく迷ってから、僕は言った。
「いっそ、僕が韓国に戻って、自分でスキャンして、美咲さんに送ったほうがいいでしょうか」
その言葉が終わると同時に、美咲さんが顔を上げた。
「行かないでください」
声は大きくなかった。
けれど、あまりにも早く出た言葉だった。
僕は驚いて、彼女を見た。
「え?」
美咲さんも自分の言葉に驚いたように、すぐ視線をそらした。
そして少し遅れて、言葉を選んだ。
「いえ、その……一人で読んでも、わからないところが多いと思います」
「こうして一緒に確認しないと、難しいんじゃないでしょうか」
「そうですね。僕ひとりでは、たぶん読めません」
僕はメッセージアプリを開き、母に連絡した。
[挟まっている紙や書類があったら、裏にも何かないか見てください。何か書いてあったら、それも一緒にスキャンしてください。急がなくていいので、ゆっくりお願いします。ありがとう]
送信ボタンを押す前に、もう一度文章を読んだ。
急がなくていいと書いたが、気持ちはそうではなかった。
それでも、待つしかなかった。
送信してから顔を上げると、美咲さんが画面の下のほうを指していた。
「最後に、続きがあります」
僕はそこを見た。
ノートの下のほう。
佐伯の独白だった。
「鞆の海を、もう一度見たい。ただ、それだけだった。」




