第30話 鞆からの便り
古い建物を改装したような扉と小さな窓、入口のそばに置かれた鉢植えは、昨日と変わっていなかった。
中では、観光客らしい人たちが庭の写真を撮っていた。
カフェの扉を開けると、小さな鈴の音がした。
窓際には、ひとりで座っている男がコーヒーを飲んでいた。奥の席では、誰かがノートに何かを書いていた。
まだ美咲さんは来ていなかった。
彼女が遅れたのではない。僕が早く来すぎただけだった。
僕は昨日と似た席に座り、携帯を取り出した。
母が夜に送ってくれたメールを確認した。
スキャンされたファイルが、いくつも添付されていた。
僕はファイルを開こうとして、手を止めた。
美咲さんが来る前に、先に見たくはなかった。
携帯を伏せて、テーブルの上に置いた。
そのとき、扉のほうでまた鈴が鳴った。
顔を上げると、美咲さんが入ってくるところだった。
昨日とは、少し雰囲気が違って見えた。
服の色が昨日より少し明るく見えたからなのか、近くに来たとき、ごく淡く違う香りがしたからなのか、はっきりとはわからなかった。
「お待たせしました」
背負っていたリュックを下ろしながら、美咲さんが言った。
「いえ、僕も今来たところです」
僕の日本語は、発音も言い方も少しぎこちなかったかもしれない。
それでも美咲さんは、わかったようにうなずいた。
僕たちは向かい合って座った。
昨日より話すことは増えていたのに、どこから話せばいいのかは、かえって見つけにくかった。
僕が先に言った。
「急に呼び出して、すみません」
「いえ。私も、気になっていました」
僕は少し、メニューのほうを見た。
「何を飲みますか」
「ハルさんは?」
「僕は、昨日と同じで、アイスアメリカーノにします」
彼女はしばらくメニューを見てから言った。
「では、今日は私もアイスアメリカーノにしてみます」
少しして、僕たちはそれぞれアイスアメリカーノを前にして座っていた。
コーヒーをひと口飲んでから、僕は携帯を手に取った。
「母が、夜に送ってくれたファイルです」
メールを開き、美咲さんのほうへ画面を向けた。
写真ファイルをひとつ押すと、黄ばんだ紙の上に、縦書きの日本語が現れた。
インクは薄くなっていて、紙の折れ目のせいで文字が途切れて見えるところもあった。
僕は指で画面を拡大した。
一行だけなら、少し見えた。
けれどそうすると、周りの文脈が消えてしまう。
縮小すると全体は見えたが、文字が小さすぎた。
僕は画面をあちこち動かし、困ったように笑った。
「これだと、少し難しいですね」
美咲さんが携帯の画面をのぞき込んだ。
彼女もすぐにうなずいた。
それから、慎重に言った。
「念のため、ノートパソコンを持ってきました」
美咲さんは小さなリュックをテーブルの横に置いた。
そしてファスナーを開け、中から薄いノートパソコンを取り出した。
「美咲さんがいなかったら、最初の一枚も読めなかったと思います。本当にありがとうございます」
「そんなことは……」
美咲さんは少し困ったように視線を下げた。
礼を言われるようなことではない、というようだった。
ふと、僕は周りを見た。
以前、日本ではカフェでノートパソコンをあまり気軽には使わないと聞いたことがあった。
「韓国では、カフェでノートパソコンを使う人が多いんです。日本では、大丈夫でしょうか」
「日本でも、絶対にだめというわけではありません。お店によると思います。ここは、バッテリーで使うなら大丈夫です」
彼女の言い方は軽かったが、少し慎重でもあった。
そんな違いひとつにも、自分がいま別の国のカフェに座っているのだと、あらためて感じた。
ノートパソコンの画面がついた。
美咲さんは席を少し譲りながら言った。
「メール、開けますか」
僕は慎重に、美咲さんの隣へ移った。
母が送った電子メールを確認するために、韓国でよく使っているメールサービスにアクセスした。
韓国では、IDとパスワードを入れれば、そのままメールボックスを確認できる。
IDを英語で入れるところまでは、難しくなかった。
けれどパスワードを入力しようとして、記号のひとつで手が止まった。
韓国のキーボードなら、習慣で押している場所がある。
けれど美咲さんのノートパソコンのキーボードには、その場所に探している記号が見当たらなかった。
パスワードの欄は、入力しても文字が見えない。
うっかり間違えて、また最初から入れ直すことになりそうで、僕は手を止めた。
美咲さんが、画面と僕の手を交互に見た。
「どうしました?」
「記号の位置が、韓国のキーボードと違うみたいです。@……韓国では、ゴルベンイと呼ぶ記号なんですが」
「ゴルベンイ、ですか?」
美咲さんが、韓国語の発音を慎重に繰り返した。
僕は少し照れくさくなって、付け加えた。
「メールアドレスにも入る記号です。日本語では……たぶん、アットマーク?」
「はい、アットマークですね。日本語のキーボードだと、ここです」
彼女が、Pの右あたりにあるキーを指した。
「そこですか」
「はい。記号の位置が、少し違うんです」
今度は、迷わずそのキーを押せた。
けれどすぐに、また手が止まった。
今度はアルファベットを打ったのに、画面の下のほうに小さな日本語入力の表示が出ていた。
入力した文字がそのまま入らず、どこかで引っかかっているように見えた。
僕はしばらくキーボードを見下ろした。
「今度は……入力の切り替えですかね」
美咲さんが画面を見て言った。
「日本語入力になっていますね。英語にするなら、半角英数にしたほうがいいと思います」
「半角英数……」
日本語の表示を見ながらその設定を探そうとすると、手が少し遅くなった。
美咲さんが、キーボードの左上を指した。
「このキーで切り替えられます」
ログインを終えるまでには、思っていたより時間がかかった。
「できました」
ノートパソコンの画面に、スキャンされたファイルが並んだ。
携帯の画面ではぼんやりした塊のように見えていた文字が、少しはっきり見えた。
隣にいた美咲さんが、画面のほうへ少し身を寄せた。
さっきかすかに感じた香りが、また届いた。
僕はすぐに画面へ視線を戻した。
「日記のようなものではなさそうですね」
「そのようですね」
僕はマウスで次の画像へ進めた。
あるページには手書きの文字がぎっしり並んでいて、次のページには折られた紙が挟まっていた。
別のファイルには、領収書のように見える小さな紙片も一緒に写っていた。
ある紙は、もともとノートに貼られていたものなのか、あとから挟み込まれたものなのか、わからなかった。
美咲さんが画面を見ながら、静かに言った。
「日記というより、残しておいたものをまとめた感じですね」
その言い方が、いちばん近い気がした。
千代子の手帳は、そのときどきの気持ちを書き留めたものに近かった。
けれど、このノートは少し違っていた。
過去を忘れないために、紙と記録をひとつの場所に集めておいたように見えた。
僕は画像をめくる手を止めた。
美咲さんが尋ねた。
「どうしました?」
「少し、時間が前後しているみたいです」
僕は画面の一部を指した。
あるページには、昭和二十年の春ごろに見える言葉があった。
けれど別のページには、その数か月あとの記録らしい内容もあった。
紙は同じノートの中にあるようだったが、時間は一方向には流れていなかった。
「一度、続けて見てみましょうか」
僕はまた画像を順に見ていった。
「ここにあるものは、だいたい昭和二十年の記録みたいです」
「昭和二十年……」
僕はその年を思い浮かべた。
西暦一九四五年。
戦争が終わる年だ。
祖父はその年、記しておきたいことがとても多かったのだろう。
そのとき、携帯にメッセージが届いた。
母からだった。
[おじいちゃんのノート、似たものがあと二冊ある。あのとき、まとめて見つけていたの]
僕はその内容を、美咲さんに日本語で説明した。
「母の話では、ノートは一冊だけではないそうです。似たものが、あと二冊あると」
「三冊……」
彼女の声は低かった。
そのとき、母からまたメッセージが届いた。
[二冊目のノートもある。いま、最初のほうを数ページだけスキャンしてみた。ひとまず、それだけ先にメールで送るね]
少しして、新しいメールの通知が出た。
僕は新しく届いたファイルを開いた。
二冊目のノートの最初のほうらしい数枚のスキャンが、画面に表示された。
まだ全部ではなさそうだった。
最初の一枚は、さっき見ていたものよりさらに黄ばんで見え、角には長く折れていた跡が残っていた。
そのとき、美咲さんが息をのむように、小さな声を出した。
「ここ、拡大できますか」
僕は画面を拡大した。
スキャンされたものだからか、携帯の画面で見たときよりずっとはっきり確認できた。
「昭和十九年 四月」
日付が、まず目に入った。
けれど、もっと大事なのは、その下に書かれている内容だった。
美咲さんが、慎重に最初の一行を読んだ。
「鞆からの便りは、これで二度目だった」
千代子の手帳が終わったあとも、まだ途切れていなかった何かが、そこに残っていた。




