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第29話 祖父の話は、まだ終わっていなかった

千代子の手帳をすべて読み終えたあと、早苗さんはしばらく何も言わなかった。


手帳は、また元の封筒の中へ戻された。


早苗さんはその上に手を置いたまま、静かに言った。


「手帳は、ここまでです」


その声は、最初に僕たちを迎えてくれたときよりも、少し硬かった。


「すみません。私も少し、整理する時間がほしいんです」


美咲が母親を見た。


何か言いかけたようだったが、すぐに口を閉じた。


外に出ると、美咲はすぐには歩き出さなかった。


写真館の前で少し立ち止まり、僕を振り返った。


「よければ、少しお茶でも飲んでいきませんか」


僕はうなずいた。


美咲は、僕をカフェへ連れていった。


距離は少しあった。


そのぶん、店には独特の空気があった。


「ここ、このあたりの人もよく来るカフェなんです。古い民家の感じが残っていて、観光で来た人も、よく立ち寄るみたいです」


美咲はそう言って、席に座った。


カフェに入ってからも、美咲はすぐには話し出せなかった。


僕も急かさなかった。


しばらくして、美咲が小さく頭を下げた。


「母が……少し硬い言い方をしてしまって、すみません」


「いえ。無理もないと思います」


美咲はテーブルの上に視線を落とした。


「私でも驚いたくらいですから、母にはもっと重かったと思います」


僕は静かにうなずいた。


そのあとで、美咲はようやくメニューに目を向けた。


「何にしますか」


「僕は、アイスアメリカーノを……この店にもありますか。なければ、アイスコーヒーで大丈夫です」


美咲が少し笑った。


「韓国の方は、アイスアメリカーノをよく飲むって聞いたことがあります」


美咲はホットコーヒーを、僕はアイスアメリカーノを選んだ。


しばらくして、コーヒーが運ばれてきた。


僕は窓のほうへ顔を向けた。


窓の外には庭が見えた。


低く整えられた木と、奥へ曲がっていく石の道があった。


美咲の言うとおり、古い民家の雰囲気によく合う庭だった。


店の奥では、旅の人らしい二人が庭へカメラを向けていた。


僕がもう一度向き直ると、美咲は両手でカップを包み、しばらくテーブルを見つめていた。


「祖母が、どんな気持ちであれを書いたのか……少しだけ、わかる気がします」


僕は答えなかった。


美咲はカップを包んだ手を見下ろしたまま、とても低い声で続けた。


「でも、本当にあの誓約書で終わったのでしょうか」


僕は美咲を見た。


「そのあと、まだ何かあったのではないでしょうか。このまま終わったとは、どうしても思えないんです」


僕は何かを言いかけて、結局口を閉じた。


千代子の待っていた時間の先に、僕の祖父の名があった。


「すみません」


美咲が僕を見た。


「ハルさんが謝ることではありません」


僕は少しためらった。


「でも、佐伯春雄は、僕の祖父です」


「あの誓約書は、佐伯さんが自分で選んで書いた言葉ではありませんよね」


美咲は静かに続けた。


「あれで気持ちまで終わったとは、思いたくありません」


そう言ってから、美咲はしばらく口を閉ざした。


そして今度は、自分が頭を下げた。


「むしろ、謝るなら私のほうかもしれません」


「美咲さんが、ですか」


「祖母を止めたのは、祖母の父でした。佐伯さんをこの町から出したのは、浩一さんたちでした。どちらも、私の側に近い人たちです」


「それは、美咲さんがしたことではありません」


「それは、ハルさんも同じです」


僕たちは、ほとんど同時に小さく頭を下げた。


目が合った。


どちらが先だったのかわからないくらい短い笑みが、そこで通り過ぎた。


そのあと、美咲が尋ねた。


「ハルさんは、いつ韓国に帰るんですか」


「近いうちに帰ろうと思っています。もともと、長く滞在するつもりではありませんでした」


僕は少し言葉を選んでから、付け加えた。


「早ければ、明日にでも」


「そんなに早くですか」


「確かめるべきことは、ある程度確かめられた気がします。もう、ここに残る理由もなくなったような気がします」


「ここは……ゆっくり歩くと、見えてくるものが多い町です。港も、常夜灯も。対潮楼から見える瀬戸内の海も、私は好きです」


その声には、鞆の海を好きな人の、静かな誇りがあった。


僕はふと、手帳の中の千代子を思い出した。


佐伯に、この町の海を見せたいと思っていた人。


その姿が、目の前の美咲と一瞬重なって見えた。


「千代子さんみたいですね」


美咲は少し止まった。


それから、困ったように小さく笑った。


「そうでしょうか」


「はい。なんとなく、そう思いました」


しばらく、静かな笑みが続いた。


けれど僕は、すぐに視線を落とした。


「ありがたいお話です。でも、帰りの便を早められるなら、近いうちに帰ろうと思います」


「……そうですか」


その短い言葉の中に、ほんの少しだけ名残惜しさが混じっているように聞こえた。


◆◆◆


カフェを出たあと、僕はしばらく港のほうへ歩いた。


初めてここへ来たときより、町の道は少しだけ見慣れたものになっていた。


僕は携帯を取り出した。


韓国にいる母に電話をかけた。


「母さん、もうすぐ帰ることになりそうです。帰りの便を早められるか調べてみます」


そこで、言葉が止まった。


話すべきなのか、話さなくてもいいのか、わからなかった。


けれど、ただ帰るとだけ言って電話を切ることはできなかった。


僕は鞆の浦で知ったことを、母にゆっくり説明した。


母は、しばらく何も言わなかった。


僕はそのまま待った。


少しして、電話の向こうで母が慎重に言った。


――あなたの話を聞いて、ひとつ思い出したものがあるの。


「何ですか」


――手帳と言えばいいのか、ノートと言えばいいのか、わからないけど。


「ノートですか」


――おじいちゃんが亡くなったあと、部屋の引き出しを片づけていたときに、偶然見たものがあったの。日本語で書かれた、古いノートみたいなものだった。


僕は足を止めた。


「日本語?」


――うん。私は読めなかったから、どこかにしまったままだったと思う。


「今も残っているでしょうか」


――探してみないとわからない。片づけた箱の中にあるかもしれない。


僕は携帯を握る手に力を入れた。


「探してもらえますか」


――探してみる。あったら写真を撮って送るね。


「はい。お願いします」


電話を切ったあとも、僕はすぐには動けなかった。


千代子の手帳は終わった。


けれど、祖父――佐伯春雄の記録は、まだ残っているのかもしれなかった。


宿へ戻る途中、母からメッセージが届いた。


――見つけた。


僕はその場で足を止めた。


すぐに、一枚の写真が送られてきた。


箱の中に、古いノートがあった。


表紙は色あせ、角は擦り切れていた。


少しして、母はノートの内側を写した写真も送ってきた。


くすんだ紙の上に、日本語の文字が縦に並んでいた。


僕は画面を拡大した。


けれど光が反射しているところもあり、文字が滲んでいるところもあった。


写真だけでは、うまく読めそうになかった。


僕はすぐに母へ電話をかけた。


「写真だと少し難しいです。字がはっきりしなくて、読みづらいです」


――それなら、スキャンして送ろうか。前にあなたが買っておいた複合機、まだ家にあるよ。


「スキャンできますか」


――前にあなたが教えてくれたでしょう。できるよ。少し時間はかかるけど、今日中にはできると思う。メールに添付して送ればいい? アドレス、もう一度送ってくれる?


以前、身分証や役所の書類をスキャンして送る用事があり、そのとき母に複合機の使い方を教えたことがあった。


「ページが少し多いかもしれません。それでも、お願いします。もしほかにも祖父のものらしい書類があったら、一緒に写真だけでも送ってください」


母との通話を終えてからも、僕はしばらく画面を見つめていた。


さっき美咲に言った言葉を思い出した。


僕は美咲に電話をかけようとして、やめた。


言葉にすると、うまく伝えられない気がした。


短い日本語なら、もう少しは話せる。


けれど複雑な話は、まだ手で打つほうがよかった。


僕はLINEを開いた。


だめなら電話しようと思った。


ゆっくりと文章を打ち込んだ。


[祖父の記録が見つかったようです。

日本語で書かれたノートです。]


そこまで打って、少し止まった。


[さっきは、もう残る理由はないと言いましたが……

もう少し、こちらに残ることになりそうです。]


そこまで書いてから、僕はまた指を止めた。


[美咲さん、明日の午前十時に、もう一度あのカフェでお会いできますか。]


送る前に、僕はその一文をしばらく見つめていた。


必要な言葉だということはわかっていた。


けれど画面の上に置いてみると、ただの確認以上の言葉のようにも見えた。


名前を入れると、ただの連絡より少し近い言葉のように見えた。


日本語の距離感は、まだよくわからなかった。


僕は少しためらった。


けれど、ほかの言葉は思いつかなかった。


そのまま送った。


少しして、美咲から返事が来た。


[はい。明日、あのカフェでお待ちしています。]


僕はその短い文を、しばらく見つめていた。


帰るはずだった日が、少し遠くなった。


祖父の話は、まだ終わっていなかった。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


第29話をもって、第一部「千代子の手帳」は完結となります。


次回からは第二部として、佐伯春雄――のちの金春雄の記録をたどっていきます。


鞆の海を忘れられなかった男が、戦後をどのように生きたのか。


引き続きお付き合いいただければ幸いです。


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