第28話 初めから話してください
修一は、千代子の家があるほうへ歩いた。
伝えるべき言葉は短かった。
無事に出た。
佐伯は、それだけを伝えてほしいと言った。
けれど、それだけを伝えて済ませてよいのか、修一にはわからなかった。
千代子の家の前に着いたとき、修一はしばらく立ち止まった。
戸を叩く前に、中から足音が聞こえた。
戸が開いた。
千代子が立っていた。
いま目を覚ましたばかりの人には見えなかった。
一晩じゅう、ろくに休めなかった人の顔だった。
「佐伯さんは……」
「無事に出ました」
「今、どこにいらっしゃるんですか」
「今朝一番の便で、この町を出ました」
「……」
「無事に出たと、伝えてほしいとおっしゃっていました」
千代子の目が、少し揺れた。
「それだけですか」
「佐伯さんが……それだけ伝えてほしいと」
「修一さん」
千代子の声は静かだった。
「あなたが知っていることを、初めから話してください。あの方に何があったのか」
修一は、しばらく何も言えなかった。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「昨日は……僕が旅館までお送りしました」
「ひとりでは、まともに歩けませんでした。部屋に入っても、すぐには座れませんでした」
「水を出してもらいました。でも、湯呑みをすぐには持てませんでした。手が震えて、水が揺れていました」
千代子はうつむいた。
重ねた手が、少し固くなった。
「今朝は、旅館の前に中村さんが立っていました」
「中村さんが?」
「はい。浩一さんに、確かめてこいと言われたそうです。それから、福山までの切符を持ってきていました」
「切符を……」
「浩一さんが用意したものだそうです。代金は要らないと言っていました」
修一は、次の言葉を言い出しにくかった。
それでも、言わなければならなかった。
「何日か面倒をかけた分だと……そう聞きました」
「中村さんは、僕に朝一番の便に乗るところまで見届けろと言いました。浩一さんの指示だと」
「佐伯さんは……乗りました。福山へ向かう一番の便に」
修一は、佐伯の最後の顔を思い出した。
「そしてもう一度、おっしゃいました。無事に出たと伝えてほしいと」
千代子の唇が、ごく小さく動いた。
「お礼も言っておられました」
「何に対しての、お礼ですか」
千代子が尋ねた。
修一はしばらく考えた。
「千代子さんの言葉を伝えたことへのお礼だったと思います」
しばらくして、千代子は姿勢を正し、修一に礼を言った。
「私からも、お礼を言います」
「僕は……」
修一は、それ以上言葉を続けられなかった。
少しして、修一は頭を下げて退いた。
戸が閉まったあとも、千代子はしばらく動けなかった。
つい先ほどまで修一が立っていた場所を、千代子はしばらく見ていた。
やがて、ゆっくり机の前に座った。
手帳を開いた。
ペンを握ってからも、しばらく何も書けなかった。
やがて、最初の一行を書いた。
修一さんから聞いた。
そう書いてから、ようやく次の行へ進むことができた。
千代子は、修一から聞いたことを、できるだけ残さず書き始めた。
何日か面倒をかけた分。
そこまで書いて、千代子はその言葉の前で長く止まった。
その言葉で片づけてよいことではなかった。
千代子はその言葉を消そうとして、ペンを止めた。
消せなかった。
そう思うと、千代子はこれまで修一から聞いたこと、自分が覚えている言葉、そのときは書けなかった小さなことまで、思い出すままに前の記録へ書き足し始めた。
千代子は、思い出した順に書いた。
字が乱れても、書き直さなかった。
どれほど時間が経ったのかわからない。
文字で埋まった手帳を閉じたとき、指先が少し痺れていた。
その日の遅い午後、千代子は家を出た。
千代子は、佐伯が泊まっていた旅館へ歩いていった。
その旅館は、最初に千代子が佐伯へ教えた場所だった。
あのときは、ただ泊まる場所が必要なのだと思った。
見知らぬ土地で困っていた人に、一晩泊まる場所を教えただけだった。
けれど今は、その門の前に立つだけで、足が止まった。
千代子は旅館の前でしばらく立っていた。
旅館の人とは顔見知りだった。
千代子が軽く会釈をして庭先へ入っても、誰も咎めなかった。
庭の奥へ数歩入ると、石灯籠が見えた。
台石の片側には、旅館の名が刻まれていた。
千代子は、そこへ近づいた。
火を入れる穴は、暗く空いていた。
立ったままでは、中はよく見えなかった。
けれど身を低くすると、内側の低い面がかろうじて見えた。
千代子は、その前で止まった。
佐伯さんも、ここを通ったのだろう。
そして今朝、またここを出ていったのだろう。
千代子は、ゆっくりと身をかがめた。
石灯籠のそばの土に、錆びた釘のようなものが半ば埋もれていた。
いつからそこにあったのかは、わからない。
千代子はそれを拾い上げた。
しばらく手の中で握っていた。
置けばよかった。
けれど、置かなかった。
鉄の欠片の先が、石の内側に触れた。
小さな音がした。
千代子は、石灯籠の内側の、立っている人からは見えない低い場所に、とても小さく文字の形に傷をつけた。
千代。
そして、その横にもうひとつ。
春。
二つの文字を残してから、千代子はようやく、自分が何をしたのかに気づいた。
千代子は、錆びた釘を置いた。
家へ戻ると、千代子はもう一度手帳を開いた。
しばらく迷った。
けれど、旅館で自分がしたことを書いた。
旅館の石灯籠の内側に、千代と春の二つの文字を残したこと。
そこまで書いて、千代子はペンを置いた。
その日の記録の最後に、二つの文字が残った。
千代。
春。




