第27話 朝一番の便
旅館の前に立っていたのは、中村だった。
空はまだ薄暗かった。
旅館の戸も開いていない。
それなのに中村は、その前に立ち、修一が来るほうを見ていた。
「来たか」
中村が先に言った。
修一は、しばらく返事ができなかった。
中村の襟元には、明け方の湿り気が残っていた。
いつからそこに立っていたのかはわからない。
今来たばかりには見えなかった。
「浩一さんに、確かめてこいと言われた」
中村は低い声で言った。
その言葉が、佐伯を確かめろという意味なのか、修一を確かめろという意味なのか、修一にはわからなかった。
もしかすると、両方なのかもしれなかった。
中村は、旅館のほうを顎で示した。
「あの男を連れてこい」
修一はうなずいた。
旅館の中へ入ると、奥から人が出てきた。
昨日、佐伯を部屋まで案内した人だった。
彼は修一の顔を見ても驚かなかった。
ただ黙って頭を下げ、奥へ通してくれた。
修一は佐伯の部屋の前に立った。
戸を叩く前に、中から小さな気配がした。
「修一です」
中で、しばらく沈黙があった。
「どうぞ」
佐伯の声は低く、細かった。
修一が戸を開けて入ると、佐伯はもう起きていた。
きちんと眠った人の顔ではなかった。
部屋の隅には、小さな包みがひとつ置かれていた。
旅立つ人の荷物というには、あまりに少なかった。
「出なければなりません」
修一が言った。
佐伯はうなずいた。
彼は自分で立とうとした。
けれど、体はすぐにはついてこなかった。
修一が近づき、腕を支えた。
「すみません」
佐伯が低く言った。
修一は、大丈夫ですと言おうとした。
けれど、その言葉も簡単には出なかった。
二人は部屋を出た。
旅館の人は、廊下の端で待っていた。
佐伯の様子を見たが、何も尋ねなかった。
ただ戸を開け、二人が出られるように脇へよけた。
外には、中村がそのまま立っていた。
中村は佐伯を見た。
しばらく言葉を失ったようだった。
けれどすぐに、懐から折り畳んだ切符を取り出した。
「浩一さんが渡せと」
彼はそれを、佐伯ではなく修一に差し出した。
修一は戸惑いながら受け取った。
「福山までの切符だ」
修一は、その薄い紙をしばらく見下ろしていた。
中村が続けた。
「金は要らないそうだ」
佐伯は何も言わなかった。
中村は少しためらい、それから浩一の言葉を伝えるように付け加えた。
「何日か面倒をかけた分だそうだ」
修一は、切符を握ったまま黙っていた。
面倒をかけた分。
その言い方だけが、耳に残った。
佐伯は切符を見なかった。
ただ、ごく小さく頭を下げた。
修一は、それ以上何も言えなかった。
中村は修一を見た。
「朝一番の便に乗るところまで見届けろ」
「はい」
「浩一さんの指示だ」
修一は、もう一度うなずいた。
中村は佐伯をもう一度見た。
何かを言おうとしたようだったが、結局何も言わなかった。
「俺は巡邏に戻る」
そう言って、道のほうへ歩いていった。
修一はしばらく、中村の後ろ姿を見ていた。
彼が本当に巡邏へ戻るのか、それとも少し離れたところから見張るのかはわからなかった。
「行きましょう」
修一は佐伯に言った。
佐伯はうなずいた。
二人はゆっくり歩いた。
町はまだ、完全には目覚めていなかった。
閉ざされた戸が続き、遠くから海の匂いがかすかに流れてきた。
早い時刻の道に、人影は多くなかった。
佐伯は、ほとんど話さなかった。
足取りは昨日より少しましに見えたが、長く歩くにはまだつらそうだった。
修一は腕を支え、歩調を合わせた。
朝一番の便が出る乗り場に着いたころ、空は少し明るくなっていた。
待っている人は多くなかった。
荷物を下ろしている者がいた。
まだ眠気の残る顔で立っている者もいた。
修一はそこでようやく、手に持っていた切符を佐伯に渡した。
佐伯は両手でそれを受け取った。
指先は、まだ少し震えていた。
「千代子さんには……」
修一が言いかけた。
佐伯が、ゆっくり顔を上げた。
「昨日おっしゃったとおりに伝えればよろしいですか」
佐伯は、しばらく答えなかった。
朝の薄い光の中で、その顔はさらに青白く見えた。
やがて佐伯が言った。
「無事に出たとだけ、伝えてください」
修一は唇を結んだ。
昨日と同じ言葉だった。
そして佐伯は、やはりそれ以上を言わなかった。
「それから……」
佐伯がもう一度口を開いた。
修一は待った。
「伝えてくださって、ありがとうございました」
それが、千代子の言葉を伝えたことへの礼なのだと、修一にはわかった。
「僕は……」
そこまで言って、修一は口を閉じた。
佐伯は小さく首を横に振った。
「いいえ」
ただ、それだけを言った。
朝一番の汽車が来た。
人々がひとり、またひとりと動き出した。
佐伯も切符を持って前へ進んだ。
体が一度、揺れた。
修一はまた腕を支えた。
佐伯は礼の代わりに、短く頭を下げた。
佐伯は汽車に乗った。
席に着くまでにも、少し時間がかかった。
修一は外に立ち、その様子を見ていた。
佐伯は窓ぎわに座った。
窓越しに、修一と目が合った。
どちらも手を上げなかった。
言葉もなかった。
しばらくして、汽車がゆっくり動き出した。
修一はその場に立っていた。
汽車は遠ざかった。
佐伯の顔は、やがて窓の内側の影に混じった。
そして、見えなくなった。
それでも修一は動かなかった。
汽車が完全に遠ざかるまで、そこに立っていた。
浩一に言われたからだと、自分に言い聞かせた。
それでも、足はすぐには動かなかった。
修一は、千代子の家へ向かわなければならなかった。
無事に出たとだけ。
佐伯はそう頼んだ。
けれど修一は、自分が見たものをすべて消すことはできなかった。
中村が旅館の前に立っていたこと。
浩一が切符を用意していたこと。
佐伯が朝一番の汽車に乗った姿。
そのすべてを見ていながら、本当にあの言葉だけを伝えていいのか、わからなかった。
修一は、ゆっくり歩き出した。
千代子の家があるほうへ。
けれど、何をどこまで話せばいいのか、まだわからなかった。




