第26話 無事に出たとだけ
修一は、自分が少し前に口にした言葉を思い出していた。
お疲れさまでした。
なぜそんなことを言ったのか、自分でもわからなかった。
佐伯に誓約書を書いてほしいと、いちばん強く願っていたのは、もしかすると自分だったのではないか。
ふとそう思った瞬間、修一は思わず身を縮めた。
そのとき、扉が開いた。
浩一が入ってきた。
手には、先ほど佐伯が書いた誓約書があった。
浩一は畳まれた紙を一度見下ろし、それから佐伯にも見えるように手に持った。
「部長にも見せた」
佐伯は顔を上げられなかった。
「これはこちらで預かっておく。それから……」
言葉の終わりを少し濁し、浩一は佐伯の様子を確かめるように見下ろした。
「ひとまず今日は、旅館へ戻れ」
佐伯の指先が、かすかに動いた。
「一晩休んで、明日の朝一番でこの町を出ろ。千代子さんには会うな。この件についても話すな」
浩一の言葉は、ひとつずつ落ちていった。
「もし誓約を破れば、そのときは今日のようには済まない」
佐伯は頭を下げた。
返事は聞こえなかった。
けれど浩一は、それで十分だというように修一を見た。
「修一」
「はい」
「お前が旅館まで連れていけ。それから明日の明け方、こいつがちゃんと発つかどうかも見届けろ」
「わかりました」
修一は短く答えた。
浩一の言葉が続いた。
「表へ回るな。裏の道を使え。人目につくところへ連れていく必要はない」
そのとき、佐伯が身を起こそうとした。
まず壁に手をつき、ひとりで立ち上がろうとした。
けれど膝に力が入らないのか、体が横へ揺れた。
修一は慌てて近づいた。
「大丈夫ですか」
佐伯は大丈夫だと言おうとしたように口を開いた。
けれど、言葉は出なかった。
結局、佐伯は修一の腕をつかんだ。
その手は冷たかった。
修一は佐伯を支え、建物を出た。
裏口を出ると、光が目に入った。
日が高く昇っていたわけではない。
それでも裏手の建物に長くいた佐伯には、その光さえつらいようだった。
佐伯はしばらく目を閉じた。
修一は歩く速さを落とした。
二人は裏道を、ゆっくり歩いた。
佐伯の足は何度も止まった。
そのたびに、修一は何も言わずに待った。
ひとつ道を曲がれば、千代子の家があるほうへ続く道があった。
修一は、そちらを見なかった。
佐伯を支えたまま、まっすぐ旅館のほうへ歩いた。
旅館の前に着くと、中から宿の人が出てきた。
その人は佐伯の顔を見て驚いたようだったが、すぐに修一の顔を見た。
そして、それ以上は尋ねなかった。
駐在所の者たちが、すでに一度部屋を調べている。
宿の人も、おおよそのことは察しているのだろう。
修一はそう思った。
宿の人は、静かに頭を下げた。
「お部屋までお連れします」
宿の人に案内されて部屋へ入ると、佐伯はすぐには座れなかった。
修一が腕を支えて、ようやく部屋の端に腰を下ろすことができた。
宿の人が水を持ってきた。
湯呑みを置いてからも、しばらく佐伯の顔を見ていた。
けれど何も尋ねなかった。
やがて頭を下げ、部屋を出ていった。
佐伯は湯呑みを受け取ったが、すぐには飲めなかった。
手が震え、湯呑みの中の水面が少しずつ揺れていた。
修一は、これ以上ここにいてよいのかどうかわからなかった。
「では、僕はこれで」
遠慮がちに言うと、佐伯が顔を上げた。
「修一さん」
「はい」
佐伯は湯呑みを置いた。
「千代子さんには……」
そこで彼は、しばらく言葉を止めた。
修一は、佐伯の次の言葉を待った。
「無事に出たとだけ、伝えてください」
修一は、すぐには答えられなかった。
佐伯の指先は、まだ震えていた。
目の下は深く落ち込み、顔には疲れが残っていた。
水の入った湯呑みさえまともに持てない人に、無事に出たと伝えてよいのか、わからなかった。
「それだけ……伝えればいいのですか」
佐伯は、何かを言い足そうとしたようだった。
唇が一度動いた。
けれど、言葉は続かなかった。
しばらくして、佐伯はもう一度言った。
「無事に出たとだけ、伝えてください」
修一は、それ以上尋ねられなかった。
「わかりました」
佐伯は小さく頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
それが千代子の言葉を伝えたことへの礼なのか。
それとも今日、旅館まで支えたことへの礼なのか。
修一にはわからなかった。
もしかすると、その両方だったのかもしれない。
修一は部屋を出た。
修一は、千代子の家があるほうを見た。
けれど、そちらへは行かなかった。
修一は家へ戻った。
父はいくつか尋ねたが、修一は詳しくは答えられなかった。
浩一に頼まれて、ひとりの男を旅館まで送ったとだけ言った。
父は不満そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
その夜、修一はなかなか眠れなかった。
翌日の明け方。
外がまだ白みきらないうちに、修一は体を起こした。
佐伯が本当にこの町を出るのか、自分が確かめなければならなかった。
修一は旅館へ向かった。
夜明け前の道を歩いているあいだも、同じ考えが頭の中をめぐっていた。
佐伯がこの町を出ていくことを、誰よりも願っていたのは、もしかすると自分だったのかもしれない。
その考えは、夜明け前の道でも頭から離れなかった。
旅館の前まで来たとき、修一は足を止めた。
まだ戸も開いていない、早い朝だった。
けれど旅館の前に、誰かが立っていた。




