表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/40

第24話 小林に代わる夜

三日目の夕方、修一はまた裏手の建物へ呼ばれた。


中に入ると、浩一の手には畳まれた誓約書があった。


佐伯の名前は、まだそこになかった。


佐伯は壁ぎわに座っていた。


昨日よりも顔色が悪く、修一が入っても、すぐには顔を上げなかった。


浩一は佐伯の前に立った。


「明日が最後だ」


佐伯は答えなかった。


「俺が見るのは、明日までだ」


浩一は畳んだ誓約書を見せた。


「明日の夜までに書かなければ、小林に任せる」


佐伯の手が、膝の上でわずかに動いた。


「俺のようには待たない。あいつ一人で来るとも限らない」


修一は、昨日の夜に戸口に立っていた小林を思い出した。


浩一は修一を見た。


「今夜は、お前が見ていろ」


「僕が、ですか」


「もし倒れそうになったら、すぐ表へ知らせろ」


浩一は短く言った。


「小林に代わる前に倒れられると、面倒だ」


その言い方で、修一にも意味はわかった。


今夜、佐伯に何かあれば、まだ浩一の責任になる。


「水は必要なら少しだけやれ。食い物は要らん」


浩一はそれだけ言って、外へ出た。


扉が閉まり、鍵の音がした。


修一は水差しへ手を伸ばした。


「水を、少し飲みますか」


佐伯は小さくうなずいた。


修一は湯呑みに水を注ぎ、格子のすき間から差し出した。


佐伯の指先は震えていた。


湯呑みを支えたまま待つと、佐伯は少しずつ水を飲んだ。


「ありがとうございます」


修一は湯呑みを戻した。


しばらく、二人は黙っていた。


やがて、佐伯が口を開いた。


「朝鮮にいたころ」


佐伯は目を伏せたまま言った。


「巡査を見て、急に口を閉じる人たちがいました」


修一は黙って聞いていた。


「そのころの私は、何か後ろめたいことがあるのだろうと思っていました」


佐伯は短く息を吐いた。


「私は、巡査に呼び止められて困ったことがありませんでしたから」


声は途切れがちだった。


「警察というものを、自分のこととして考えたことがなかったのだと思います」


少し間を置いて、佐伯は続けた。


「でも、今になってわかりました」


「どうして、朝鮮の人たちが巡査を怖がっていたのか」


さらに少し間が空いた。


「村上巡査部長が言ったんです。ここは朝鮮ではない、と」


佐伯は自分の手を見た。


「金も力もない私のような者は、結局、内地の人たちの目には、半朝鮮人と映るだけなのでしょう」


「佐伯さん」


修一は思わず声を出した。


「そういう言い方は、正しくないと思います」


そう言いながら、修一は昨日の小林の顔を思い出していた。


佐伯を見ていた、あの目だった。


「小林さんに代わったら、本当に危ないと思います」


佐伯は修一を見た。


「昨日、戸口にいた小林さんは……浩一兄さんとは違います」


修一は言葉を選びながら言った。


「あなたのことを、かなり嫌っているように見えました」


佐伯は答えなかった。


「今夜は、まだ僕がいます。でも、明日の夜は……」


そこまで言って、修一は口を閉じた。


佐伯はしばらく黙っていた。


それから、ゆっくりと首を振った。


それだけだった。


「少し、目を閉じてください」


修一が言うと、佐伯は小さくうなずいた。


ほどなくして、佐伯の呼吸が浅く整った。


眠っているのか、気を失っているだけなのか、修一にはわからなかった。


修一は何度か立ち上がり、佐伯の胸が上下しているのを確かめた。


それだけを見て、夜を過ごした。


朝になった。


扉が開き、浩一が入ってきた。


「生きているな」


浩一はそう言って、佐伯の前に立った。


「考えは変わったか」


佐伯は紙を見た。


それから、ゆっくりと首を振った。


「書けません」


浩一は表情を変えなかった。


「そうか」


紙を畳んだ。


「今日は、昨日より長くなる」


佐伯は答えなかった。


「それでも書かないと言うなら」


浩一は、畳んだ紙を指先で軽く叩いた。


「今夜は小林に渡す」


修一は息を止めた。


「そうなれば、明日の朝日を見られるとは限らない」


浩一はそこで口を閉じた。


少しして、修一を見た。


「今のは聞かなかったことにしろ」


修一は答えられなかった。


「戻れ。しばらく、ここへは来るな」


短い声だった。


修一は建物を出た。


写真館へ戻る道でも、少し前に聞いた浩一の言葉が頭から離れなかった。


修一は写真館へ戻らず、そのまま千代子の家へ向かった。


戸を叩くと、しばらくして千代子が顔を出した。


「修一さん?」


驚いた声だった。


「こんな朝に、どうしたんですか」


修一はすぐには答えられなかった。


「佐伯さんが、まだ出されていません」


千代子の顔が変わった。


「まだ……?」


「三日、出されていません」


修一は言った。


「水も食事も、自由には取れていません」


千代子はすぐには理解できないようだった。


「それは……疑われている人を、しばらく留めているだけではないのですか」


「違います」


修一は首を振った。


「責められ方は、拷問に近いと思います」


千代子の顔がこわばった。


「まさか、警察が……」


「本当です。僕が見ました」


修一は、夜のあいだに見たことを話した。


佐伯の手が、水を飲むときにも震えていたこと。


小林が佐伯を半朝鮮人と呼んだこと。


そして、浩一が今夜は小林に渡すと言ったこと。


「今夜は小林に渡す。そうなれば、明日の朝日を見られるとは限らない。浩一兄さんは、そう言いました」


千代子は戸のふちを握った。


「佐伯さんは、何か言っていましたか」


「朝鮮でのことを、少し話しました」


修一は言った。


「今まで自分が知らずにいたことを、ここで知ったのだと言っていました」


千代子に求められ、修一はその話も伝えた。


話し終えるころ、千代子はうつむいていた。


「修一さん」


千代子は言った。


「佐伯さんに、伝えてください」


修一はうなずいた。


「誓約書でも、何でも書いてください、と」


千代子の声が震えた。


「私は大丈夫です」


「だから、どうか」


千代子は唇をかんだ。


それから、はっきりと言った。


「生きて出てください、と」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ