第23話 今日より長い日
外がまだ白みきらないうちに、裏手の建物の扉が開いた。
佐伯は、ほとんど眠れないまま、その音を聞いた。
浩一が入ってきた。
手には、昨夜と同じ紙があった。
佐伯は壁に背を預けたまま、ゆっくりと顔を上げた。
「考えはまとまったか」
浩一は、そう聞いた。
声は静かだった。
昨夜のようなやわらかさはなかった。
佐伯は紙を見た。
それから、浩一を見た。
「書けません」
声は小さかった。
だが、言葉は昨日と同じだった。
浩一はしばらく佐伯を見ていた。
それから、紙を畳んだ。
「そうか」
短く言った。
「なら、始める」
佐伯は目を伏せた。
体が、先にこわばった。
「立て」
佐伯は壁に手をついた。
すぐには立ち上がれなかった。
「早くしろ」
佐伯は息を詰め、どうにか立ち上がった。
立っただけで、床をうまく踏めなかった。
浩一は手を貸さなかった。
「座れ」
佐伯はまた膝を折った。
板に膝が触れた瞬間、昨日の痛みが戻った。
「背を伸ばせ」
佐伯は背を伸ばした。
「手は膝の上だ」
佐伯は両手を膝に置いた。
「前を見ろ」
佐伯は前を見た。
浩一は正面に立った。
「なぜこの町へ来た」
昨日と同じ問いだった。
「旅行です」
「誰に会うためだ」
「特定の誰かに会うためではありません」
「千代子さんとは、どういう関係だ」
「道を教えていただきました」
「夜に会った理由は」
佐伯は、そこで息を整えた。
答えられない問いは、昨日から変わっていなかった。
浩一はその沈黙を見て、目を細めた。
「前を見ろ」
佐伯は顔を上げた。
その日、問いは昨日より早く始まった。
なぜ来たのか、誰と会ったのか、千代子と何を約束したのか、朝鮮語の混じった書類を何に使うつもりだったのか。
言葉は少しずつ形を変えたが、戻ってくる場所は同じだった。
佐伯は、旅行で来ただけだ、仕事の書類だ、道を教えてもらっただけだと、答えられることだけを繰り返した。
水も食事も、形だけは出された。
だが、飲むにも食べるにも浩一の目があった。
箸を取る手が遅れ、湯呑みに触れる指が震えるたびに、浩一は何かを確かめるように佐伯を見ていた。
昼を過ぎても、問いは終わらなかった。
立てと言われれば立ち、座れと言われれば座った。
少しでも姿勢が崩れると、警棒の先が肩や背に触れた。
大きく打たれるわけではない。
それでも、触れられるたびに、体のどこかが先に縮んだ。
日が傾くころ、佐伯は時間の流れがわからなくなっていた。
ただ、紙だけは何度も見た。
浩一の手の中にある白い紙。
名前を書けば終わる紙。
名前を書けば、千代子に近づかないと、自分で認めることになる紙。
佐伯はそのたびに目をそらした。
そのころ、修一は写真館にいた。
明け方に戻ってから、いったん布団に入ったものの、眠ることはできなかった。
目を閉じると、裏手の建物と、格子の向こうの佐伯の顔が浮かんだ。
父に何をしていたのかと聞かれたとき、修一は浩一に言われたとおり、夜の用事を手伝っただけだと答えた。
父はそれ以上深く聞かなかった。
聞かなかったことが、修一にはかえって重かった。
昼を過ぎても、写真館の仕事は手につかなかった。
乾いた皿を棚に戻し、帳場の紙をそろえ、表の戸を開け閉めしても、動きだけがいつも通りで、気持ちはずっと裏手の建物に残っていた。
夕方近くになって、中村が写真館へ来た。
「浩一さんからです」
中村は、店の入り口でそう言った。
「夜のあいだ、また手を貸してほしいとのことです」
修一は返事をするまでに、一呼吸遅れた。
「わかりました」
父が奥から顔を出した。
「またか」
中村は困ったように頭を下げた。
「すみません。浩一さんから、修一さんを呼ぶようにと言われました」
修一は父を見ることができなかった。
「行ってきます」
そう言って、草履を履いた。
写真館を出ると、海のほうから湿った風が来た。
昼のあいだ、町はいつも通りに動いていたのだろう。
それなのに、修一には少しだけ違う町のように見えた。
裏手の建物の前に着くと、浩一が待っていた。
「今夜も裏だ」
浩一は短く言った。
「俺がいるあいだは、そこで見ていろ。余計なことはするな」
「はい」
「水も、食い物も、勝手にはやるな」
「……はい」
浩一は扉を開けた。
中に入った瞬間、修一は足を止めた。
佐伯は、昨日と同じ壁ぎわに座っていた。
けれど、顔を上げるまでに昨日より長い時間がかかった。
「修一さん」
佐伯の声はかすれていた。
修一は返事をしようとしたが、浩一が先に紙を出した。
「昨日よりは、わかっただろう」
浩一は佐伯の前に紙を置いた。
「名前を書けば終わる」
佐伯は紙を見た。
昨日と同じ文面だった。
二度とこの町へ来ないこと。
千代子に近づかないこと。
この件を口外しないこと。
その下には、名前を書くための空白があった。
佐伯はその空白を見つめたまま、しばらく動かなかった。
修一は息をひそめた。
佐伯の手が、膝の上でわずかに動いた。
だが、その手は紙へは伸びなかった。
「書けません」
昨日よりもかすれた声だった。
浩一は、すぐには返事をしなかった。
紙を拾い上げると、丁寧に畳んだ。
「明日も聞く」
その声は静かだった。
「そのときも同じ答えができるかどうかだ」
佐伯は答えなかった。
そのあとも、浩一はしばらく留置場に残った。
問いはもう多くなかった。
ただ、佐伯の前に立ち、ときおり紙を見せながら、名前を書く気はないのか、これを終わらせるつもりはないのかと短く確かめた。
佐伯は、そのたびに小さく首を振るか、黙っていた。
修一は、そのやりとりを聞いていた。
声を出すことはできなかった。
格子の向こうで、佐伯は壁に背を預けていた。
浩一が問いを止めても、すぐには息をつかなかった。
体のどこかが、まだ次の言葉を待っているようだった。
外は少しずつ暗くなっていった。
やがて、外がすっかり暗くなったころ、浩一は扉のほうへ向かった。
「少し外す」
浩一は修一を見た。
「ここにいろ」
「はい」
「さっき言ったことを忘れるな。水も食い物も、勝手にはやるな」
「……はい」
浩一は鍵を持ったまま、外へ出ていった。
扉が閉まる音がした。
はじめのうち、修一は動かなかった。
浩一の足音が遠ざかっても、すぐには水差しに手を伸ばせなかった。
またすぐ戻ってくるかもしれない。
そう思うと、指先が動かなかった。
けれど、格子の向こうで佐伯が小さく息をつく音がした。
修一は顔を上げた。
佐伯は壁に背を預けたまま、目を閉じていた。
眠っているわけではない。
それだけは、修一にもわかった。
しばらく待った。
表のほうからは、浩一の戻ってくる足音は聞こえなかった。
修一はようやく水差しへ手を伸ばした。
「浩一兄さんが戻る前に、飲んでください」
佐伯は小さくうなずき、湯呑みを受け取ろうとした。
だが、指先がふちに触れたところで、手が止まった。
修一は湯呑みを離せなかった。
早く飲んでもらわなければならない。
それなのに、その震えを見た瞬間、急がせることができなくなった。
「……ゆっくりでいいです」
佐伯は時間をかけて湯呑みを受け取り、こぼさないように少しずつ水を飲んだ。
その様子を見て、修一は昼のあいだ佐伯がどれほど削られていたのか、ようやくわかった気がした。
「……ありがとうございます」
佐伯が言った。
修一は湯呑みを受け取り、水差しのそばへ戻した。
そのあと、修一はしばらく迷った。
聞いていいことではない。
そう思った。
けれど、聞かなければ何もわからないままだった。
「どうして、書かないんですか」
佐伯は黙っていた。
修一はすぐに言い直そうとした。
「すみません。僕が聞くことでは――」
「書けば」
佐伯が、かすれた声で言った。
修一は口を閉じた。
佐伯は目を伏せたまま続けた。
「書けば、終わるのでしょう」
「……はい」
「ここから出られる。眠ることもできる。もう、同じことを聞かれずに済む」
佐伯はそう言って、小さく息を吐いた。
「でも、書いたら……本当に終わってしまう気がするんです」
「千代子さんに近づかないと書かれた紙に、名前を書く」
佐伯はゆっくりと言った。
「それは、私が自分でそう約束することになります」
「この町に来たことまで、なかったことにするような気がします」
そのとき、外で足音が止まった。
修一は顔を上げた。
扉のすき間から、小林が中をのぞいていた。
「まだ名前も書かせてないのか」
小林は、格子の向こうを見て、鼻で笑った。
「浩一さんも、ずいぶん丁寧にやるんだな。俺なら、とっくに終わらせてる」
修一は立ち上がった。
「入らないでください」
小林は目を細めた。
「お前が俺に指図するのか」
「浩一兄さんに言われています。誰も近づけるなと」
小林は舌打ちした。
だが、中へは入ってこなかった。
修一は扉の前に立ったまま、動かなかった。
小林は格子の向こうの佐伯を見た。
佐伯は何も言わなかった。
小林は自分の目元を指で示し、それから佐伯を指した。
「見てるからな、半朝鮮人」
修一は、その言葉に息を詰めた。
佐伯は答えなかった。
小林はもう一度だけ佐伯をにらみ、表のほうへ戻っていった。
足音が遠ざかってからも、修一はすぐには動けなかった。
小林が荒っぽいことは、修一も知っていた。
だが、今の言い方は、それだけではない気がした。
千代子の名が出たとき、小林の目つきが変わったことを、修一はふと思い出した。
格子の向こうで、佐伯は目を閉じていた。
今のやりとりを聞いていたはずだった。
それでも、何も言わなかった。
そのあと、留置場の中はまた静かになった。
修一は腰掛けに座ったまま、耳を澄ませていた。
浩一の足音は、なかなか戻ってこなかった。
何度か、修一は水差しのほうを見た。
もう一度だけ、と考えた。
だが、さっきの水だけでも、見つかれば何を言われるかわからない。
修一は手を膝の上で握った。
表のほうで足音がしたのは、夜もだいぶ更けてからだった。
修一はすぐに顔を上げた。
佐伯も目を開けた。
扉が開き、浩一が戻ってきた。
「戻るぞ」
浩一は修一に言った。
「今日はもういい。家へ戻れ」
「はい」
「明日の夕方、また呼ぶ」
「……はい」
修一は立ち上がった。
格子の向こうで、佐伯は壁に背を預けたままだった。
目は開いていた。
どこを見ているのかは、わからなかった。
修一は頭を下げた。
「また来ます」
佐伯は少しだけ顔を動かした。
それがうなずきなのか、ただ力が抜けただけなのか、修一にはわからなかった。
表へ戻る途中、浩一は何も言わなかった。
その背中は、いつもと変わらなかった。
修一は黙ってついていった。
写真館へ戻る道で、夜の町は静かだった。
家々の明かりはもう少なく、港のほうから水の音だけがした。
修一は途中で足を止めた。
千代子に知らせるべきなのかもしれない。
そう思ったが、足は動かなかった。
浩一に知られたらどうなるのか。
佐伯が黙って守っているものを、自分が勝手に話していいのか。
その答えを出せないまま、修一は立ち尽くした。
千代子の家は、夜の町の向こうにあった。
灯りがついているかどうかまでは見えない。
修一はその方角をしばらく見ていたが、結局その夜は、そちらへ足を向けなかった。




