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第22話 誓約書

夜が明ける少し前、修一は浩一に呼ばれた。


「もういい。表へ戻れ」


修一は腰掛けから立ち上がった。


留置場の中で、佐伯は壁に背を預けたまま目を閉じていた。


眠っているようには見えなかった。


浩一は鍵を握ったまま、修一を見た。


「ここで見たことを、余計に話すな」


「はい」


「お前の父にもだ。夜の用事を手伝った。それだけでいい」


「……はい」


修一はうなずいた。


それから、もう一度だけ鉄格子の向こうを見た。


佐伯は目を開けなかった。


けれど、修一にはわかった。


佐伯は起きている。


修一は小さく息を詰めた。


そして、何も言わずに表へ戻った。


空が白みはじめていた。


鞆の浦の朝は、いつもなら静かだった。


港のほうから、船の支度をする音がかすかに届く。


けれど、その日の朝だけは、修一にはその音が遠く聞こえた。


裏の小さな建物に、佐伯がまだいる。


修一は何度もそちらを振り返りそうになり、そのたびに足を速めた。


浩一は修一の背中を見送ったあと、留置場の扉を開けた。


佐伯は目を開けた。


「立て」


佐伯は壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。


足に力が入らないのか、一度だけ膝が揺れた。


浩一はそれを見ても、手を貸さなかった。


「座れ」


佐伯は床を見た。


「ここに、ですか」


「そうだ」


浩一は板の床を指した。


「正座だ。背を伸ばせ。手は膝の上。前を見ろ」


佐伯は言われたとおり、膝を折った。


板の床は冷たかった。


はじめは、それだけだった。


痛みというほどのものではない。


ただ、夜通し休めなかった体には、その姿勢を保つことさえ重かった。


浩一は佐伯の正面に立った。


「動くな」


佐伯は前を向いた。


口の端の傷が乾いて、動かすたびに少し引きつった。


浩一はしばらく何も言わなかった。


ただ、佐伯の前に立っていた。


その時間が、かえって長かった。


やがて、浩一が口を開いた。


「なぜこの町へ来た」


佐伯は答えた。


「旅行です」


「誰に会うためだ」


「……特定の誰かに会うためではありません」


「千代子さんとは、どういう関係だ」


佐伯は言葉を探した。


「道を教えていただきました」


「それだけか」


「はい」


浩一は少しだけ目を細めた。


「では、なぜ夜に会った」


佐伯は答えられなかった。


浩一はまた黙った。


そのあいだも、佐伯は正座のまま前を見ていなければならなかった。


膝の下の板が、しだいに硬さを増していくようだった。


足の感覚が薄くなる。


背を伸ばしているつもりでも、肩が少しずつ落ちる。


「前を見ろ」


浩一の声が飛んだ。


佐伯は姿勢を戻した。


それでも、しばらくすると体がまた傾いた。


次の瞬間、警棒の先が佐伯の肩を打った。


大きな音ではなかった。


だが、佐伯の体はわずかに前へ崩れた。


「動くなと言った」


浩一の声は低かった。


怒鳴ってはいない。


だからこそ、冷たく聞こえた。


佐伯は息を整え、もう一度背を伸ばした。


「もう一度聞く」


浩一は同じ声で言った。


「千代子さんとは、どういう関係だ」


同じ問いが、何度も戻ってきた。


なぜ来た。


どこから来た。


誰に会った。


何を話した。


なぜ夜に出た。


千代子とは何を約束した。


佐伯は同じ答えを繰り返した。


旅行です。


道を教えてもらいました。


それ以上のことはありません。


けれど、同じ答えを返すたびに、膝の痛みだけがはっきりしていった。


昼に近づくころには、佐伯の足はほとんど自分のものではなくなっていた。


それでも、浩一は立つことを許さなかった。


「姿勢が崩れている」


警棒の先が、今度は背中を打った。


佐伯は声を出さなかった。


出せば、何かに負けるような気がした。


ただ、息だけが喉の奥で乱れた。


浩一はその顔を見下ろした。


「我慢はできるか」


佐伯は答えなかった。


「なら、続けろ」


日が高くなっても、問いは終わらなかった。


佐伯は座らされ、立たされ、また座らされた。


水は少しだけ与えられた。


食事も出されたが、箸を持つ手が思うように動かなかった。


浩一は急がなかった。


急ぐ必要がないかのように、同じ問いを繰り返した。


日が傾くころ、佐伯の顔色は朝よりも悪くなっていた。


それでも、浩一は何も決めさせなかった。


何かを書けとも、まだ言わなかった。


ただ、佐伯が立てなくなる手前で、やめた。


「今日はここまでだ」


その言葉を聞いたとき、佐伯はようやく息を吐いた。


だが、それが終わりではないことだけは、もうわかっていた。


夜になって、修一は裏手の建物へ戻ってきた。


浩一に呼ばれたわけではなかった。


ただ、表の用事を終えたあとも、そこに佐伯がいることが頭から離れなかった。


修一は扉の前で足を止めた。


中をのぞいた瞬間、言葉が出なかった。


佐伯は、昨日と同じ壁ぎわに座っていた。


それなのに、修一が覚えている姿とは違って見えた。


顔色は悪く、肩も落ちていた。膝を動かすだけでも、時間がかかっている。


修一が近づくと、佐伯は顔を上げようとした。


だが、その動きも遅かった。


「佐伯さん」


修一は思わず声をかけた。


佐伯は小さく首を振った。


「大丈夫です」


その言葉は、昨日よりも弱かった。


修一は答えられなかった。


大丈夫なはずがなかった。


聞かなくても、昼のあいだに何があったのか、少しはわかった。


修一は水差しに手を伸ばした。


昨日と同じように、少しだけ水を渡そうとした。


そのときだった。


背後で足音がした。


修一の手が止まった。


佐伯も顔を上げた。


浩一が立っていた。


なぜ今ここへ来たのか。


修一には、すぐにはわからなかった。


浩一は修一の手元を一度見ただけで、何も言わなかった。


浩一は怒鳴らなかった。


手にしていた盆を、静かに扉の前へ置いた。


「今日は大変だったな」


浩一は、穏やかに言った。


修一は耳を疑った。


佐伯も、すぐには返事をしなかった。


盆の上には、握り飯が二つと、たくあんが少し載っていた。


湯呑みも一つあった。


「食え」


浩一は言った。


「昼はろくに食えなかっただろう」


佐伯は盆を見た。


それから、浩一を見た。


「どういうことですか」


「どうもこうもない」


浩一は小さく息を吐いた。


「俺だって、好きでこんなことをしているわけじゃない」


その声は、やわらかかった。


昼間、警棒を持っていた男と同じ声には聞こえなかった。


「上がうるさいんだ」


浩一は続けた。


「村上巡査部長も、もう簡単には引けない。お前の荷物から朝鮮語の混じった書類が出たことも、小林が騒いだ。ここで何もなかったことにするには、形がいる」


「形……」


「そうだ」


浩一は盆の横に、一枚の紙を置いた。


その紙には、すでに何かが書かれていた。


「難しいことじゃない」


浩一は言った。


「文面はこちらで用意した。お前は名前を書くだけでいい」


佐伯は紙を見た。


字は整っていた。


二度とこの町へ来ないこと。


千代子に近づかないこと。


この件を口外しないこと。


そのような文言が、淡々と並んでいた。


「これを書けば、終わりだ」


浩一は、佐伯の顔を見た。


「今夜は休ませてやる」


修一は息をのんだ。


その紙が何なのか、ようやくわかった。


誓約書。


佐伯をこの町から追い出すための紙。


そして、千代子とのあいだにあったものを、佐伯自身の手で断たせるための紙。


浩一は続けた。


「俺は、お前を助けようとしている」


佐伯は顔を上げた。


「助ける、ですか」


「そうだ」


浩一の声はまだ穏やかだった。


「俺でなければ、もっと面倒になっていた。高等係の話まで出ていたんだ。お前がこの程度で済んでいるのは、俺がここで止めているからだ」


佐伯は黙っていた。


「わかるだろう」


浩一は紙を少し前へ押した。


「名前を書け」


佐伯は紙を見た。


その横に、握り飯があった。


湯呑みがあった。


昨日からまともに休んでいない体には、それだけでも十分すぎるほどの誘いだった。


名前を書けば、終わる。


食事ができる。


今夜は横になれる。


明日は、今日と同じことをされずに済む。


佐伯の前には、その紙と、握り飯と、湯呑みが並んでいた。


佐伯の指が、わずかに動いた。


修一はそれを見た。


佐伯の手は、少し震えていた。


佐伯はゆっくりと息を吸った。


それから、紙から目を離した。


「書けません」


浩一の顔から、やわらかさが消えた。


すぐには何も言わなかった。


佐伯はもう一度、低く言った。


「それは、書けません」


修一は動けなかった。


浩一はしばらく佐伯を見ていた。


やがて、静かに盆を持ち上げた。


握り飯も、湯呑みも、そのまま佐伯の前から遠ざけられた。


「そうか」


浩一の声から、さっきまでのやわらかさは消えていた。


「まだ一日目だから、耐えられると思っているんだな」


佐伯は答えなかった。


浩一は紙を拾い上げた。


「明日は今日より長いぞ」


浩一は言った。


「考えろ。明日の夜、また聞く」


それだけ言うと、浩一は扉に鍵をかけた。


修一に目を向ける。


「見張りは続けろ。余計なことはするな」


「……はい」


浩一は盆と紙を持ったまま、表の建物へ戻っていった。


足音が遠ざかる。


裏手には、風の音だけが残った。


修一はしばらく動けなかった。


格子の向こうで、佐伯が静かに言った。


「すみません」


修一は首を振った。


「佐伯さんが謝ることではありません」


佐伯は何も言わなかった。


修一は留置場の前の腰掛けに戻った。


そのあいだ、佐伯は壁に背を預けていた。


目を閉じていたが、眠ってはいなかった。


上着の内側には、まだ薄い封筒があった。


佐伯は目を閉じたまま、朝までそれに触れなかった。


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