第21話 何もありません
留置場の扉を閉めたあとも、浩一はすぐにはその場を離れなかった。
鍵を握ったまま、しばらく扉の前に立っていた。
背後で、小林が小さく息を吐いた。
「藤井さん、このままですか」
浩一は振り返らなかった。
「表へ戻れ」
「見張りは」
「俺が見る」
小林は、なお何か言いたげだった。
だが、さっき村上巡査部長の前で釘を刺されたばかりだったせいか、それ以上は言わなかった。
浩一は中村を見た。
「中村。小林を手伝え。表の片づけをしておけ」
「はい」
中村は短く返事をした。
小林は不満そうに佐伯の入れられた建物を見たが、結局、何も言わずに表の建物へ戻っていった。
二人の足音が遠ざかる。
それを待ってから、浩一はもう一度、留置場の扉を見た。
表の部屋からは、ここは見えない。
声も届きにくい。
小林を遠ざけるには都合がよかった。
だが、表から見えない場所は、都合がいい分だけ危うかった。
佐伯をここへ入れると決めたのは自分だった。
村上巡査部長は、手を引くと言った。
つまり、ここから先、何かあれば、責めを負うのは浩一になる。
浩一は舌打ちをした。
厄介なものを引き受けた。
このまま自分が一晩中ここに張りついていられれば、まだいい。
だが、表の仕事も残っている。
巡回も、報告も、外へ出て確かめなければならないこともある。
小林には任せられない。
ほかの巡査をつければ、余計な口が増える。
そこで、浩一は駐在所の前にまだ残っているはずの少年を思い出した。
修一。
さっき、きつく釘は刺した。
なぜ自分を呼びに来たのかは、聞かなかった。
聞く必要はない。
使えるなら、それでいい。
藤井の者である以上、少なくとも小林よりは口止めしやすい。
そう考えて、浩一は表のほうへ歩いた。
駐在所の前には、まだ修一が立っていた。
冷たい夜気の中で、両手を体の前にそろえ、動かずに待っていた。
浩一は短く言った。
「まだいたのか」
修一は顔を上げた。
「はい」
「ちょうどいい。手を貸せ」
修一の目がわずかに揺れた。
「僕が、ですか」
「お前しかいない」
浩一は、修一の返事を待たずに続けた。
「勘違いするな。あの男を助けるためじゃない」
修一は唇を結んだ。
「お前は藤井の者だ。俺の言うことを聞け」
「……はい」
「今から裏に座っていろ。戸は開けるな。鍵は俺が持つ。小林が来たら近づけるな。何かあればすぐ俺を呼べ」
修一は一度、駐在所の裏手へ目を向けた。
「父には……」
「俺から言っておく。夜の用事を少し手伝わせたと」
浩一は声を低くした。
「それと、あの男と余計な話はするな」
修一はすぐには答えなかった。
浩一の目が細くなる。
「返事は」
「はい」
「水も勝手にやるな。楽をさせるために入れるわけじゃない」
修一の肩が、わずかに動いた。
浩一はその反応を見たが、言葉を変えなかった。
「ただし、倒れられても困る。本当にまずいと思ったときだけ、少しだ」
「わかりました」
「本当にわかったのか」
「……わかりました」
浩一は、修一の顔をしばらく見ていた。
不安はあった。
この少年がどうして佐伯にそこまで関わろうとしたのか、浩一にはわからない。
だが、それを問いただすつもりはなかった。
知れば、その分だけ面倒になる。
今は、口を閉じて、言われたことだけをさせる。
それで十分だった。
浩一は修一を連れ、裏手の小さな建物へ戻った。
留置場の中で、佐伯は壁ぎわに座らされていた。
手は縛られていない。
だが、扉の向こうには鍵があり、その鍵は浩一の手の中にあった。
佐伯は二人の足音に気づき、顔を上げた。
修一の姿を見た瞬間、その目が小さく見開かれた。
浩一は扉の鍵を開けた。
「立て」
佐伯はゆっくりと立ち上がった。
まだ体の芯が揺れているようだった。
口の端の血は乾きかけていたが、頬の腫れはさっきよりはっきりしていた。
浩一は佐伯の上着を見た。
「持ち物をもう一度見る」
佐伯の顔がこわばった。
「宿の荷物は、もう……」
「黙れ」
浩一は短く言った。
「荷物ではない。お前自身だ」
佐伯は言葉を止めた。
浩一は外套のポケットを探り、上着の裾を軽くはたいた。
小さな紙片と、使い古した手拭いが出てきた。
どちらも、すぐに問題になるようなものではなかった。
そのとき、表のほうから中村の声がした。
「藤井さん」
浩一は顔をしかめた。
「何だ」
「表の戸締まりのことで、少し」
浩一は舌打ちをしそうになったが、こらえた。
そして、修一を見た。
「残りを見ろ」
修一は息をのんだ。
「僕が、ですか」
「大ざっぱに済ませるな。胸の内側と、腰まわりだ」
浩一は佐伯に目を向けた。
「妙な動きをするな」
佐伯は答えなかった。
浩一は扉の外へ半歩出た。
完全には離れない。
ただ、表のほうへ声を返すために顔を向けた。
そのわずかな間に、修一は佐伯の前に立った。
手が震えそうになるのを、必死に押さえた。
佐伯は何も言わなかった。
修一は言われたとおり、上着の内側を確かめた。
右側には何もない。
左側へ手を移したとき、指先に薄いものが触れた。
紙より少し厚い。
折り目のある封筒の角。
修一の手が止まった。
それが何なのか、考えるまでもなかった。
自分が焼き増しをし、自分が佐伯に渡した写真だった。
鞆の浦の海を背に、千代子と佐伯が並んで写っている写真。
あのとき、佐伯はそれを両手で受け取った。
そして、胸のほうへ抱えるようにして持っていた。
今も、そこにある。
修一は一瞬だけ、佐伯の顔を見た。
佐伯も、修一を見ていた。
その目に、頼むような色はなかった。
ただ、見つかったのだとわかっている顔だった。
修一は封筒をつかまなかった。
指先を、その上からすべらせた。
そして、何もなかったように手を引いた。
「どうした」
浩一の声がした。
修一は顔を上げた。
「何もありません」
浩一がこちらを見た。
「ちゃんと見たのか」
修一は、喉の奥に力を入れた。
「はい。ちゃんと見ました」
佐伯は目を伏せた。
浩一は少しのあいだ修一を見ていたが、それ以上は問いたださなかった。
「ならいい」
浩一は扉を閉めた。
鍵が回る音がした。
佐伯は再び鉄格子の向こうに戻った。
浩一は修一に向き直った。
「俺が戻るまで、ここにいろ。さっき言ったことを忘れるな」
「はい」
「小林が来たら、すぐ俺を呼べ」
「わかりました」
浩一はまだ何か言いたげに修一を見た。
だが結局、言わなかった。
「余計な情けをかけるな」
それだけを残し、浩一は表の建物のほうへ戻っていった。
足音が遠ざかる。
やがて、裏手には風の音だけが残った。
修一は留置場の前に置かれた古い腰掛けに座った。
建物の中は暗かった。
小さな明かりが一つあるだけで、鉄格子の向こうの佐伯の顔も半分は影になっていた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
先に口を開いたのは、佐伯だった。
「……ありがとうございました」
修一は首を横に振った。
「礼を言われることではありません」
佐伯はそれ以上、言葉を続けなかった。
修一はしばらく迷ったあと、腰掛けの横に置かれていた水差しを手に取った。
格子の隙間から、小さな湯呑みを差し出す。
「少しだけです」
佐伯は驚いたように修一を見た。
「よろしいのですか」
「浩一兄さんが戻ったら、簡単には飲ませてもらえません」
修一は声を落とした。
「今のうちに、少しだけ飲んでください」
佐伯は湯呑みを受け取った。
佐伯は水を飲んだ。
一度に飲み干そうとはせず、少しずつ喉へ流し込んだ。
飲み終えると、湯呑みを修一へ返した。
「助かりました」
「そういうことは、言わないでください」
修一の声は思ったより硬く出た。
佐伯は口を閉ざした。
その沈黙が、かえって苦しかった。
修一は目を伏せた。
さっき、写真を見なかったことにした。
佐伯も、それに気づいている。
修一も、気づかれていることを知っている。
それでも、そのことを口にするわけにはいかなかった。
しばらくして、佐伯が低い声で尋ねた。
「どうして、私をかばったんですか」
修一は答えなかった。
格子の向こうで、佐伯が続けた。
「あなたには、何の得にもならないはずです」
修一は、しばらく膝の上の手を見つめていた。
それから、ようやく口を開いた。
「千代子さんが、悲しむのを見たくないだけです」
佐伯は息を止めたようだった。
修一はそれ以上言わなかった。
佐伯もすぐには答えなかった。
佐伯は胸のあたりに、わずかに手を添えた。
写真の封筒が、そこにある。
修一は見ないふりをした。
外では風が吹いていた。
表の建物からは、かすかに人の動く気配がした。
修一は水差しを元の場所へ戻した。
そして、低い声で言った。
「今は、少しでも休んでください」
佐伯は顔を上げた。
「休む、ですか」
「はい」
修一は、格子の向こうを見た。
「夜が明けたら、たぶん休めません」
佐伯は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
修一も、それ以上は説明しなかった。
説明したところで、夜が明ければわかる。
佐伯は壁に背を預けた。
目を閉じようとした。
けれど、眠りは来なかった。
胸の内側で、薄い封筒の角がかすかに当たっていた。




