第20話 一線を越える前に
「そこまでだ」
浩一の声は、思っていたより低く出た。
小林の手が止まった。
部屋の中の視線が、浩一に集まった。
佐伯は部屋の真ん中に立っていた。
さっき書類綴りで頭を叩かれたせいか、その目は揺れていた。
浩一は小林を見た。
「いったん奥の小部屋へ移せ。まさか、この男をここで調べるつもりか」
小林は、しばらく口を閉ざした。
ほかの巡査たちも、互いに顔色をうかがった。
駐在所の中とはいえ、この部屋は表に近く、人目につきやすかった。
扉を開ければ外から中が見えたし、夜とはいえ、誰かが通りがかりにのぞき込まないとも限らない。
小林にも、その程度のことはわかっていた。
「まあ、そうですね」
小林が不承不承に答えた。
浩一は、佐伯のほうを見なかった。
「調べは俺が見る。まずは縛って、奥の小部屋に座らせておけ。お前たちは少し待て」
「待て、ということですか」
「外で片づけることがある。すぐ戻る」
小林の顔に不満が浮かんだ。
けれど浩一は、その言葉を遮るように付け加えた。
「俺が戻るまで始めるな。手も出すな」
「わかりました」
返事はしたが、小林の声は上の空だった。
浩一はそれが気にかかった。
けれど今は、先に確かめなければならないことがあった。
修一のやつ。
まだ外にいるなら、一度きつく釘を刺しておかなければならない。
このまま黙って立たせておくのも厄介だったが、今すぐ家へ帰せば、それはそれで目立つ。
少なくとも、今夜、自分を呼びに来たことだけは、誰にも言わせてはならなかった。
浩一は扉を開けて外へ出た。
冷たい夜気が顔に触れた。
駐在所の前は暗かった。
だが、その暗がりの中に、まだ立っている影があった。
修一だった。
浩一は彼に近づき、低い声で短く告げた。
「今夜、俺を呼びに来たことは誰にも言うな」
修一は、ただ頭を下げた。
浩一はその顔を見下ろした。
「なぜ俺を呼んだのかは聞かない」
修一の肩が、わずかにこわばった。
「あの男にどんな借りがあるのかは知らん。だが、今夜のことで返したと思え」
浩一は、さらに声を低くした。
「ここから先は藤井の名にも関わる。これ以上、あの男に関わるな」
修一は、何かを言いかけた。
けれど、声にはならなかった。
浩一はそれを遮るように言った。
「これからは、俺の言うとおりにしろ」
帰れ、とまでは言わなかった。
今は、その一言をきちんと飲み込ませるだけで十分だった。
あとで修一の手を借りなければならないことも、あるかもしれない。
浩一はすぐに駐在所の中へ戻った。
だが、その短いあいだに、部屋の中の空気は変わっていた。
佐伯は、さっきと同じ姿勢では立っていられなかった。
体が少し傾き、口の端が小さく切れていた。
片方の頬も赤く腫れていた。
小林は息を整えていた。
「こいつが抵抗したので」
小林はそう言った。
おそらく佐伯を縛って部屋へ連れていこうとしたとき、彼が何かを訴えたか、身を引いたのだろう。
それが本当に抵抗だったのか。
それとも、殴られまいとして身をすくめただけだったのか。
それはわからなかった。
けれど結果は、すでに目の前にあった。
小林が言った。
「このまま、ここで調べたほうがいいでしょう」
別の巡査がすぐに言葉を継いだ。
「扉は私が閉めます。どうせ今から来る者もいません」
その言葉を聞いた佐伯が、口元を動かしかけて止まった。
何かを言おうとしたようだったが、声にはならなかった。
浩一はその顔を見ながら思った。
このままでは、本当に取り返しがつかなくなる。
一度手が出れば、次はもっと簡単になる。
高等係という言葉が出た以上、小林は自分が大きな仕事をしていると思い込むかもしれない。
それがいちばん厄介だった。
小林が勝手に先走れば、その後始末は結局こちらに回ってくる。
佐伯が本当に何をしたのかは、後ろへ押しやられるだろう。
残るのは、朝鮮語が書かれた書類と、不逞鮮人という言葉と、駐在所の中で巡査部長の前に声を上げた男だけだった。
厄介なことになった。
浩一は奥の部屋へ視線を向けた。
「部長に相談してくる」
小林が目をつり上げた。
「今ですか」
「そうだ。今だ」
「調べは」
浩一は指で椅子を示した。
「俺が出てくるまで待て」
「いや、今……」
「小林」
浩一の声が低くなった。
「お前、ずいぶん偉くなったな」
小林の顔がこわばった。
「いえ、そういう意味ではなく」
「巡査部長の前で、お前が先走るな。こういうことで話が大きくなると、あとが面倒になる」
浩一は、ほかの巡査たちを見た。
「俺がこういうことを一度や二度しか見ていないと思うか。理由があって言っている。待て」
その言葉に、ほかの巡査たちは口を閉ざした。
浩一は扉のそばに立っていた中村を呼んだ。
「中村」
「はい」
「この男をよく見ておけ」
「わかりました」
言葉の上では、佐伯を監視しろという命令だった。
だが実際には、小林のそばに中村をつけておくということだった。
中村は小林と、それほど仲がよいわけではない。
少なくとも小林がまた手を出そうとすれば、一度くらいは顔色をうかがわせることができる。
浩一は奥の部屋へ向かった。
短く扉を叩いた。
「入れ」
奥の部屋から、村上巡査部長の声が聞こえた。
浩一は扉を開けて中へ入った。
村上巡査部長は、机のそばに立っていた。
手には煙草を持っていたが、火はついていなかった。
彼は煙草を指に挟んだまま、浩一を見ていた。
「何だ」
浩一は扉を閉めた。
そして、すぐに頭を下げた。
「申し上げたいことがあります」
「外はどうなっている」
「もう少し確認しているところです」
村上巡査部長の目が細くなった。
「それで?」
浩一は一瞬、言葉を選んだ。
ここで佐伯をかばっているように見えてはいけない。
そう見えた瞬間、自分も佐伯の側に立つ人間になる。
浩一は、佐伯のために来たわけではなかった。
この件がこれ以上大きくなるのを防ぐために来たのだ。
「率直に申し上げますと、あの書類だけで高等係のほうまで回すのは、少し無理があります」
村上巡査部長の顔が固くなった。
「無理だと?」
「はい」
浩一は顔を上げないまま言った。
「あの男の言うとおり、ただの取引関係の書類だったと後でわかれば、話がおかしくなります」
「構わん」
その返事は短かった。
けれど浩一は、引き下がらなかった。
「巡査部長おひとりの問題ではありません」
村上巡査部長の目が動いた。
浩一は慎重に言葉を続けた。
「事件が高等係にまで上がったあとで、何でもない商取引の文書だったという話になれば、駐在所のほうも困ります。私ども全員に及ぶことになりかねません」
その言葉に、村上巡査部長は初めてわずかに反応した。
浩一は、その隙を逃さなかった。
「それに、この件にはお嬢さんの名前も関わっています」
部屋の空気が、さらに冷たくなった。
浩一は息を整え、続けた。
「夜にお嬢さんがあの男と一緒にいたという話が外へ漏れれば、よいことはありません。事件が上へ上がれば、その話もついて回ることになります」
浩一には、どうしても口に出せない言葉があった。
本当は、お嬢さんに近づいた男を懲らしめたいだけではありませんか。
その言葉は言えなかった。
代わりに、別の言葉で包んだ。
「結局のところ、あの男を強く懲らしめ、この町から追い払えばよろしいのではありませんか」
村上巡査部長の指が、煙草を押した。
煙草の先が、少し折れた。
「ふむ」
浩一は、あと少し押せばいいのだとわかった。
「最近、部長のお名前が広島の県警察部のほうへ上がっていると聞いております」
村上巡査部長の目つきが変わった。
「……その話を、今ここで出すのか」
「よいご縁があって、広島の県警察部に近いところでお勤めになれるかもしれない、という話です。長年のお勤めを思えば、悪い話ではないはずです」
浩一は一度、言葉を切り、慎重に続けた。
「そういう大事な時期に、余計なことで評価に傷がつくのはよくない、という意味です」
しばらく沈黙が流れた。
村上巡査部長は、やがて口を開いた。
「では、あいつの処理を、お前が責任を持ってまとめられるのか」
浩一は頭を下げたまま答えた。
「私が引き受けます」
「どうする」
「三日ほど留置場に入れておきます。昼のあいだは正座させ、許しなく動けないようにします」
軽い処分ではなかった。
三日も続けば、若い男の膝も腰ももたない。
けれど、この場で高等係の名が上へ回るよりはましだった。
浩一は続けた。
「あの男がもう耐えられないと思うころに、二度とこの町には来ないという誓約書を取ります。千代子さんの近くにも二度と寄らないと書かせます」
村上巡査部長の目が、少し動いた。
浩一は言葉を継いだ。
「誓約書を取ったあと、あの男が町を出るときも私が確認します。そして、もしまた戻ってくれば、そのときは絶対に見逃さないと、きつく言い含めておきます」
「また戻ってきたら?」
「そのときは、私が責任を持ってもう一度連れてきます。今回のように、言葉では済ませません」
本当にそうできるかどうかは、わからなかった。
けれど今必要なのは、村上巡査部長が納得できるだけの強い言葉だった。
「おそらく、留置場に一日いるだけでも音を上げるでしょう。それが三日となれば、二度と戻ってくる気など起こせないはずです」
村上巡査部長は、煙草を見下ろした。
しばらくして、折れた煙草を灰皿に押しつけた。
「あの男から誓約書を取れ。二度とこの町へ来ないと。千代子の近くにも寄らないと」
「はい」
村上巡査部長は、ゆっくりと身を起こした。
「私は関わらん。すべては藤井、お前が勝手に処理することだ」
後で問題になれば、浩一が責めを負うことになる。
それでも、今ここで小林に任せるよりはましだった。
「そのようにいたします」
村上巡査部長は扉のほうへ歩いた。
彼は浩一の肩をかすめるようにして通り、扉を開けた。
浩一は、その後ろについて外の部屋へ戻った。
小林とほかの巡査たちは、すぐに姿勢を正した。
佐伯は、まだうつむいたまま立っていた。
口元の血は、拭うこともできていなかった。
村上巡査部長は、佐伯を一度見た。
その目には、さっきまでの怒りがそのまま残っていた。
「藤井」
「はい」
「お前が好きにしろ。私は手を引く」
その一言だけを残し、村上巡査部長は駐在所の外へ出ていった。
扉が閉まった。
部屋の空気が、また変わった。
小林が不満そうな顔で浩一を見た。
「このまま終わりですか」
浩一は小林を見た。
「終わりじゃない」
彼は佐伯へ視線を向けた。
「裏の留置場に入れる」
佐伯の顔がこわばった。
「私は……」
「黙れ」
浩一が低く言った。
佐伯は言葉を止めた。
駐在所の裏手には、表の建物から少し離れた小さな建物があった。
酔って暴れた者や、夜のうちに帰せない者を一晩置くための場所だった。
表の部屋からは見えず、声も届きにくい。
だからこそ、人目を避けるには都合がよかった。
浩一は佐伯を裏手へ連れていきながら、その耳元で低く言った。
「今は話さないことが、生き残る道だ」
佐伯は、それ以上抗弁しなかった。
裏手の小さな建物の前で、浩一は足を止めた。
背後で、小林が何か言いたげに息を吐いた。
浩一は振り返らなかった。
留置場の扉が閉まった。
鉄の噛み合う音が、小さく響いた。




