第152話 捕虜収容所の米軍
僕は最後の一文をもう一度見た。
本当に危険な一日だった。
しばらく誰も口を開かなかった。
最初に話したのは美咲さんだった。
「本当に大変な一日だったんですね。」
「そうですね。」
綾乃さんも静かにうなずいた。
すると美咲さんが、ふと尋ねた。
「ところで、さっき出てきた『チュィセッキ』って、どういう意味なんですか?」
僕は少し考えた。
「日本語にすると、『ネズミ野郎』くらいだと思います。かなりきつい言い方です。」
「裏切り者っていう意味ですか?」
「その意味そのものではないです。でも、周りの様子をうかがいながら自分の利益を得ようとする人のあだ名なら、かなり似合ってますね。」
綾乃さんが言った。
「実際、あの人にはよく似合うあだ名だったんですね。」
「そうですね。」
祖父に情報を売っていた人間が、今度は祖父をほかの捕虜たちに売った。
それなのに、自分が祖父に姿を見られていたことにさえ気づかないまま、平然とまた現れた。
美咲さんが時間を確認した。
「もうお昼を過ぎてますね。」
そういえば、お腹が空いていた。
僕たちは、ひとまず一階へ下りた。
「ずっとこんな話ばかり見てたから、お昼はちょっとおいしいものを食べましょう。」
美咲さんの言葉に、綾乃さんがうなずいた。
「私、よく知ってるお店があります。」
「綾乃さんがよく知ってるお店ですか?」
「前にここへ配達してもらったお店です。」
思い出した。
以前、研究所で食べた高級な日本料理だった。
綾乃さんの言う「配達」がどういう意味なのかも、そのとき知った。
「じゃあ、前みたいに配達してもらえばいいんじゃないですか?」
綾乃さんが少しためらった。
「実は……。」
「はい?」
「父に、彼氏とまた撮った写真はないのかって聞かれたんです。」
僕は綾乃さんを見た。
「またですか?」
隣で美咲さんが笑った。
綾乃さんは少し困ったような顔で言った。
「証拠写真、一枚だけ撮ってもらえませんか?」
「それを撮るためにお店に行くんですか?」
「食事もしますよ。あそこ、おいしいです。」
「それはそうですけど。」
「でも、今から行って大丈夫なんですか? もともと予約して行くお店ですよね?」
「電話してみます。」
綾乃さんがスマートフォンを取り出して、店に電話した。
しばらく話してから電話を切った。
「予約できました。」
そうして僕たちは研究所を出た。
◆◆◆
低い和風の建物の前には、木々と塀がきれいに整えられ、玄関まで続く石畳もきちんとしていた。
華やかというより、静かでよく整えられた場所だった。
中へ入ると、すぐに店の人が迎えてくれた。
僕たちは小さな庭が見える個室へ案内された。
最初の料理が出てきた。
鯛と旬の野菜が、広い器の上に盛られていた。
量が多いわけではなかったが、魚や野菜を置く位置から器の色、横に添えられた小さな飾りまで、すべて考えて配置されているように見えた。
「きれいですね。」
僕の言葉に美咲さんが笑った。
「食べるのがもったいないくらいでしょう?」
「ちょっとだけ。」
日本料理は味だけでなく、目で見ることも大切にすると聞いたことがあった。
実際に見ると、どういう意味なのか少しわかった気がした。
次には白身魚の刺身が出て、そのあとには焼き魚が続いた。
料理が変わるたびに器も変わった。
同じ魚を使っていても、盛り付け方によってまったく違う料理のように見えた。
食事をほとんど終えたころ、綾乃さんがスマートフォンを取り出した。
「写真……撮らないといけませんよね?」
「じゃあ、店員さんにお願いしましょうか?」
僕が言うと、美咲さんがすぐに手を伸ばした。
「いいえ。私が撮りますよ。」
「お願いします。」
綾乃さんがスマートフォンを渡した。
美咲さんは僕たちの向かい側へ移動した。
僕と綾乃さんは並んで座った。
美咲さんがスマートフォンの画面を見た。
「二人とも、離れすぎですよ。」
「これくらいでいいんじゃないですか?」
「だめです。」
「どうしてですか?」
「彼氏と食事してる写真なんでしょう? もう少しくっついてください。」
僕と綾乃さんが少し近づいた。
美咲さんはもう一度画面を見た。
「もう少し。」
僕は綾乃さんのほうへ、少し体を寄せた。
「これくらいでいいですよね?」
「うーん……。」
美咲さんが僕たちを見てから言った。
「二人で腕を組んでください。」
「腕までですか?」
ところが綾乃さんは、特にためらうこともなく僕の腕を取った。
肩が触れるくらい近くなった。
僕は美咲さんを見た。
これ、わざとやってるのかな?
美咲さんは何でもない顔でスマートフォンを構えた。
「いいですよ。そのままで。」
カシャッ。
写真を確認した美咲さんが、満足そうにうなずいた。
「よく撮れてます。」
綾乃さんがスマートフォンを受け取り、写真を確認した。
美咲さんが笑いながら言った。
「これなら、お父さまも信じるでしょうね。」
「これ以上、本当の彼氏だと思われると困るんですけど。」
僕の言葉に、美咲さんがまた笑った。
綾乃さんも口元に少し笑みを浮かべた。
食事を終えたあと、僕たちは研究所へ戻った。
美咲さんは一階にしばらく残り、僕と綾乃さんが先に二階へ上がった。
資料をもう一度確認しようとしたとき、綾乃さんが僕を見た。
「ところで、もしかして……。」
「はい?」
「あのとき、私が腕をつかんで誤解されたこと、美咲さんに話しましたか?」
「あ。」
僕は少し言葉を止めた。
「前に車で戻るとき、誤解されたってことだけ少し話しました。」
「そうだったんですね。」
「美咲さんも特に何も言いませんでした。先に話してなくて、すみません。」
綾乃さんはしばらく僕を見てから、うなずいた。
「そうなんですね。」
そして画面へ視線を戻した。
「じゃあ、また資料を確認しましょう。」
「はい。」
しばらくして、美咲さんも二階へ上がってきた。
僕たちは再びノートを確認した。
次の記録は長くなかった。
数日後、アムゲにまた会ったという内容だった。
内容を追っていくと、当時の状況が頭の中に浮かんだ。
◆◆◆
「この内容は、直接確認したんですか?」
「どの部分でしょうか?」
「鋭く研いだ鉄片のことです。」
「それは直接見ました。腹に押し当てられて、脅されました。」
アムゲの表情が固くなった。
「布で覆われていた物は?」
「それは何かわかりません。樽のように見えるものと、細長い物がありましたが、きちんとは確認できませんでした。」
アムゲがもう一度報告書を見下ろした。
「鉄片を研いで武器を作っているという情報か……。」
「状況はよくありません。」
「私もわかっています。この問題については、米軍側にも繰り返し話しています。」
アムゲがしばらく報告書を見た。
「ですが、米軍側は今の状況をまだ十分に深刻には受け止めていません。」
アムゲも今の状況にもどかしさを感じているように見えた。
「それから、今後はそんな危険なやり方で調べないでください。」
「わかりました。」
「今回は運が良かったから出てこられたんです。一歩間違えば、本当に大変なことになっていました。」
私もそう思っていた。
「当分は補給業務だけに集中してください。」
「はい。」
「普段どおり仕事をしながら、目に入ったことだけ確認すればいいんです。」
「わかりました。」
それからは補給業務だけに集中した。
そして、新しい物資が入ってくる日だった。
トラックの前で物資を確認していると、誰かが私を呼んでいた。
振り向いた。
興南で会った米軍の兵士たちだった。
不思議だった。ここでまた会うとは。
「久しぶりです。」
私は英語が得意というわけではなかったが、簡単な会話ならある程度やり取りできた。
彼らも補給関係の仕事で巨済に来ているという。
一人の米兵が、持っていたコーヒーを私に差し出した。
「これ、持っていけ。」
「ありがとうございます。」
私はコーヒーを受け取った。
話をしているうちに、自然と捕虜収容所の話になった。
「ここの状況はよくありません。」
「心配するな。米軍も増えたから大丈夫だ。」
彼らは自信に満ちていた。
「それでも、気をつけたほうがいいです。」
彼らが私を見た。
「わかった。気をつけるよ。」
そう言って笑いながら、私の肩を軽く叩いた。
だが、私には彼らがまったく心配しているようには見えなかった。
まさか捕虜が米軍に手を出すだろうか。
そんなふうに考えているように見えた。
私はそれ以上何も言わなかった。
◆◆◆
僕は画面から目を離した。
美咲さんが言った。
「興南で会った米軍の人たちが、巨済にもいたんですね。米軍の増援が来たんでしょうか?」
「米軍が増えたこと自体は確かみたいですけど、増援だったのかはわかりません。」
僕はまたノートを読んだ。
そのあとには、普通の補給記録が続いていた。
車両が到着した。
物資を受け取った。
数量を確認した。
一部の物資は数量が合わず、もう一度確認した。
翌日も似たような記録が続いた。
午前に物資を受け取った。
特に問題はなかった。
午後には不足していた物資をもう一度確認した。
僕はさらに数行読んだ。
すると突然、短い記録が目に入った。
大変なことになった。
米軍の将官が捕虜たちに捕らえられた。




