第150話 アムゲの意味
記録は、そこで終わっていた。
僕と綾乃さんは、しばらく何も言わなかった。
祖父が特務機関の仕事をすることになったという内容だった。
しかも、その理由は日本へ行くためのパスポートだった。
綾乃さんが先に口を開いた。
「これは美咲さんにも、すぐ話したほうがいいですよね?」
「はい。僕もそう思います。」
僕たちは席を立ち、一階へ下りた。
美咲さんはノートパソコンの前に座っていた。
僕たちが下りてくるのを見て、顔を上げた。
「もう全部見たんですか?」
「はい。」
綾乃さんが美咲さんの前に座った。
「ちょっと予想外の内容が出てきました。」
「どんな内容ですか?」
「佐伯さんが特務機関の仕事をすることになったんです。」
美咲さんが目を大きくした。
「特務機関ですか?」
「はい。」
「韓国の特務機関なんですよね?」
「はい。そうです。」
僕は席に座ろうとして、ひと言断ってから冷蔵庫へ行った。
そこからBOSSの缶コーヒーを一本選んだ。
「それ、気に入ったみたいですね。」
「はい。思ったよりおいしいです。」
「日本に来てから飲むようになったんですよね?」
「はい。」
すると美咲さんが、小さなお菓子の袋も一つ差し出した。
「これも食べてみてください。」
中には、一つずつ包装された薄いお菓子が入っていた。
包装を開けてみると、薄くてパリッとしていそうなお菓子の片面にチョコレートがかかっていた。
一口食べてみた。
「おいしいですね。」
僕はBOSSを一口飲んだ。
「これともよく合いますね。」
美咲さんが笑った。
「それで、特務機関の話はどうなったんですか?」
綾乃さんが一階の閲覧用ノートパソコンで資料を見せながら、さっき確認した内容を簡単に説明した。
すると美咲さんが僕を見た。
「ところで、少領って高い階級なんですか? 旧日本軍と比べると、どのくらいですか?」
僕は少し考えてから説明した。
「旧日本軍でいう少佐くらいにあたります。」
美咲さんがうなずいた。
「そんな人が、あのアムゲという人に敬礼したんですね。」
「そうですね。」
綾乃さんがまた尋ねた。
「ところで、ずっと気になっていたんですけど。アムゲって、もともと韓国の名前なんですか?」
僕はその言葉を聞いて笑った。
「違います。」
「違うんですか?」
「人の名前じゃないんです。」
二人が同時に僕を見た。
「韓国語で、誰なのかをはっきり言わないときに使う表現なんです。」
美咲さんが尋ねた。
「じゃあ、偽名でもないんですか?」
「偽名と言えなくもないですけど、ちゃんとした名前を作ったわけでもないですね。」
僕はノートパソコンを引き寄せて検索してみた。
「日本語でいうと……『某』とか『誰それ』に近いと思います。」
綾乃さんが画面を見た。
「じゃあ、最初から自分の名前を教えるつもりがなかったんですね。」
「そうみたいですね。」
美咲さんが言った。
「ずっとアムゲさんって呼んでたから、私は本当の名前だと思ってました。」
「韓国語を知らなければ、名前みたいに聞こえるかもしれませんね。」
綾乃さんが少し考えてから言った。
「でも、佐伯さんはパスポートのためにアムゲさんの提案を受けたみたいですけど、どう思いますか?」
「僕もそう思います。」
綾乃さんが尋ねた。
「当時の韓国では、パスポートを取るのはかなり難しかったんですか?」
「今とはかなり違いました。」
僕はノートパソコンでいくつか確認した。
「当時は、申請すれば誰でも簡単に取れるものではなかったんです。」
「かなり厳しかったってことですね。」
「はい。今とは比べものにならないくらいです。」
僕は検索した内容をもう少し見た。
「当時の一般旅券も、どんな目的でも取れたわけではなかったみたいですね。」
美咲さんが尋ねた。
「どういうふうになってたんですか?」
「視察や研究などの文化用務、留学、商用、移民、在外同胞、民間の国際会議への参加といった形で、申請区分が分かれていました。」
「観光は?」
「今のように、観光や個人的な訪問だけを目的に取るパスポートはなかったようです。」
綾乃さんが言った。
「じゃあ、申請するための書類も多かったんでしょうね。」
「はい。申請書や戸籍抄本、写真だけじゃなくて、身元調査書と健康診断書も必要でしたし、兵役義務者は国防部の海外旅行許可も受けなければなりませんでした。旅行の目的によって、ほかにも必要な書類がありましたし。」
美咲さんが言った。
「じゃあ、ただ日本に行って誰かに会いたいっていう理由では、取るのは難しかったんですね。」
「はい。祖父の場合なら、かなり難しかったと思います。」
「それなら、佐伯さんにとっては本当に重要な条件だったんですね。」
「そうだったんでしょうね。」
僕は答えながら、少し考えた。
ふと、祖母が残した品の中から見つかった古いパスポートを思い出した。
そのことを言おうとした瞬間、綾乃さんが先に口を開いた。
「結局、千代子さんに会いに日本へ行くために、特務機関の仕事を引き受けたんですね。」
「はい。そうみたいです。」
少し静かになった。
美咲さんがまた言った。
「でも、最初の任務は巨済だったんですよね?」
「はい。」
「巨済、また行くんですね。」
僕は笑った。
「そうですね。」
巨済捕虜収容所。
ただ、今回は補給業務だけをしに行くわけではなかった。
特務機関の任務も併せて担っていた。
僕は残っていたBOSSを飲み終えた。
「美咲さんも、今回は一緒に上で見ますか?」
美咲さんが席を立った。
「はい。そうします。」
僕たち三人は、再び二階へ上がった。




