第145話 これが辛いんですか?
夕方が近づいたころ、南宮さんから連絡が来た。
[着きました。研究所の前にいます。]
外へ出ると、一台のセダンが停まっていた。
トヨタかな?
南宮さんが運転席の窓を開けた。
「乗ってください。」
美咲さんと綾乃さんが後部座席に乗り、僕は助手席に座った。
車が走り出してから、僕は尋ねた。
「これ、何ていう車ですか?」
「トヨタ・カムリです。ハイブリッドで、静かですし、燃費も悪くないし、中も広いので、何人かで乗るのに便利なんです。」
「そうなんですね。名前は知ってましたけど、実際に乗るのは初めてです。」
すると後ろに座っていた美咲さんが尋ねた。
「韓国では日本車ってあまり乗らないんですか? まさかカムリに乗るのが初めてだとは思いませんでした。」
「日本車も輸入されていますけど、思ったほど多く見かけるわけではないんです。韓国で輸入車というと、BMWやベンツみたいなドイツ車がよく挙げられるので。」
「そうなんですね。」
「でも、実際に乗ってみたら、日本車もかなりいい選択肢ですね。」
「はい。私もそう思います。」
南宮さんも僕の言葉に同意した。
そうして、僕たちを乗せたカムリは道路を走っていった。
しばらく窓の外を見ていた僕は、ふと気になることができた。
すぐ隣に南宮さんがいたせいか、後ろに二人がいることも考えないまま、韓国語で尋ねた。
「ところで、日本でどうやって運転してるんですか?」
僕の質問に、南宮さんも自然に韓国語で答えた。
「国際運転免許証を取ってきました。」
それがあれば日本でも運転できることを思い出した。
「車は?」
「レンタカーです。月単位で借りてます。数か月したら帰るのに、車を買ったらあとで処分するのも大変じゃないですか。」
「それはそうですね。」
「保険は基本のものに入ってますし、念のため免責補償も付けました。」
僕はうなずいた。
南宮さんのような立場なら、それが一番合理的な方法に思えた。
そこでようやく、後ろが静かなことに気づいた。
振り返った。
美咲さんと綾乃さんが僕たちを見ていた。
たぶん二人は、しばらく僕たちが何を話していたのかわからなかったのだろう。
「……すみません。すぐ隣に南宮さんがいたので、つい韓国語で話してしまいました。」
すると南宮さんもすぐに説明した。
「韓国人が日本でどうやって車を用意して運転してるのか、っていう話をしてたんです。」
続けて南宮さんは、さっき僕に話してくれた内容を簡単にまとめて、もう一度説明した。
「そうだったんですね。」
南宮さんがルームミラー越しに綾乃さんを見た。
「でも、綾乃さんは大丈夫ですか? 普段はこれよりずっといい車に乗ってますよね。」
「いいえ。」
綾乃さんがすぐに答えた。
「今のほうがいいです。」
そしてほんの一瞬、僕のほうを見て、少しだけ目が合った。
「もうすぐ着きます。」
南宮さんの言葉に、僕は周囲を見回した。
「あそこです。」
南宮さんが、かなり大きな商業ビルの前に車を停めた。
「食堂があるんですか?」
美咲さんと綾乃さんが首をかしげた。
外には食堂らしい看板が一つもなかったからだ。
「ついてきてください。」
車を停めたあと、僕たちは南宮さんについて歩いた。
建物の中に入ると、フロア案内のあちこちに、日本語と一緒に韓国語が書かれていた。
美咲さんが案内板を見上げた。
「こういう建物、初めて来ました。」
綾乃さんも周囲を見回した。
「私もです。」
南宮さんが言った。
「韓国人がよく利用する建物なんです。だから韓国語もよく使われてるんですよ。」
「どんなところがあるんですか?」
僕が尋ねると、南宮さんが答えた。
「在留資格なんかの相談ができる行政書士事務所もありますし、留学生の生活をサポートする業者もあります。」
南宮さんが案内板の別の場所を指した。
「携帯電話やSIMの契約、自宅のインターネットの申し込みを手伝ってくれるところもあります。」
「便利ですね。」
「でしょう? 初めて日本に来ると、何をどう申し込めばいいかわからないことも多いですから。」
南宮さんが付け加えた。
「私が使ってるレンタカーも、ここにある業者に紹介してもらったんです。」
それを聞いた美咲さんが言った。
「ここに来れば、日本で暮らすのに必要なことは、ほとんど何とかなりそうですね。」
「韓国人なら、だいたいここで何とかなりますね。あっちのクリニックは韓国語でも診療を受けられますし。」
内科や耳鼻咽喉科、整形外科などのクリニックも入っていた。
そのとき、綾乃さんが突然足を止めた。
「あれは何ですか?」
「ああ、あれですか。贈答用の紅参製品を売っているお店みたいですね。」
「紅参ですか?」
「高麗人参を蒸して乾燥させた健康食品です。」
「高麗人参は聞いたことがあります。」
そのとき南宮さんがショーケースを見た。
「全部ジョンガンジャンの商品ですね。贈答用だから、高級なラインを中心に置いてるみたいです。」
赤と金色の入った箱が、ショーケースの中にきれいに並んでいた。
綾乃さんがしばらく見てから言った。
「父に一つ買おうかな。ちょっと寄ってもいいですか?」
僕は南宮さんと美咲さんを見た。
「いいですよ。」
「ちょっと寄って見ていきましょう。」
二人も同意したので、僕たちは店の中へ入った。
中へ入ると、以前嗅いだことのある人参の香りがかすかにした。
綾乃さんが店員に贈答用の商品について尋ねた。
「こちらが一番よく出る商品です。」
店員が贈答用の商品をいくつか説明した。
「一番高いラインを見せてください。」
すると店員が、ショーケースの奥にある商品を見せた。
説明を聞き、値札を見た僕は、数字をもう一度確認した。
かなり高いな。
韓国でも、高級な百貨店にでも行かなければ見かけないような贈答用の商品だった。
まさか日本のこんな商業ビルの中で、それを見ることになるとは思わなかった。
「これにします。」
店員が包装を準備しているあいだ、南宮さんが尋ねた。
「お父さんに、何か特別なプレゼントでもするんですか?」
「最近ずっと、高いお菓子の詰め合わせをもらってるんです。私も何か贈ったほうがいいかなと思って。」
「そうなんですか?」
南宮さんが首をかしげた。
「綾乃さん、お菓子が好きなんですか?」
「そういうわけじゃないんですけど……。」
しばらく、誰も答えなかった。
やがて綾乃さんが僕を見た。
美咲さんも僕を見た。
すると南宮さんが尋ねた。
「ハルさんと関係があるんですか?」
「それが……。」
美咲さんが笑いをこらえながら綾乃さんを見た。
「私が説明してもいいですか?」
綾乃さんは少しためらってから、うなずいた。
すると美咲さんが、僕の「偽彼氏」騒動について話した。
「本当ですか? それは勘違いされても仕方ないですね。」
南宮さんの唇が小さく震えていた。笑いを必死にこらえているのだ。
そのとき、包装が終わったという店員の声に、みんなの視線がそちらへ向いた。
綾乃さんが財布から黒いカードを取り出し、店員に渡した。
黒い地に、金色で翼の生えた馬が描かれていて、その下には「THE CLASS」という文字があった。片側にはJCBのマークも見えた。
かなり高級そうなカードだった。
韓国でよく言うブラックカードみたいなものなのだろうか。
支払いが終わると、綾乃さんは高級そうなショッピングバッグを受け取った。
「よし。プレゼントの準備は終わり。今度こそ食事に行きましょう。」
「ついてきてください。」
僕たちはエレベーターに乗り、地下1階へ下りた。
地下には小さな飲食店など、いくつかの店が廊下に沿って並んでいた。
南宮さんについて、さらに奥へ少し進んだ。
「あそこです。」
一軒の店が見えた。
「ここが食堂なんですか?」
美咲さんが言った。
入口の横に、小さな看板が一つあるだけだった。
「知らない人は、本当に見つけられませんね。」
「だから初めて来る人は、だいたい知ってる人に連れてきてもらうんです。」
中へ入ると、店主が南宮さんに気づいた。
南宮さんが韓国語で挨拶した。
美咲さんと綾乃さんは自然に席に座った。
南宮さんが僕を見て尋ねた。
「ナジュコムタン、初めてですよね?」
「はい。名前だけは知ってました。」
「じゃあ、今日はちゃんと食べてみてください。」
しばらくして、コムタンが出てきた。
澄んだ淡い色のスープの中にご飯が入っていて、その上には牛肉とねぎが載っていた。
横にはカクテキと白菜キムチが添えられていた。
僕はまず、スープを一口飲んだ。
思っていたよりあっさりしていた。
南宮さんが尋ねた。
「どうですか?」
「おいしいですね。」
美咲さんもスープを飲んだ。
「思ったよりスープが澄んでますね。」
綾乃さんはカクテキを見た。
「これは何ですか?」
「カクテキです。大根で作るキムチです。コムタンと一緒に食べればいいですよ。」
綾乃さんが一つ食べた。
そして少し考えてから言った。
「少し辛いですけど、大丈夫です。」
「これが辛いんですか?」
美咲さんがすぐに僕を見た。
「今、『辛くないですよ』って言おうとしましたよね?」
「あ、そうじゃなくて……。」
僕は少し考えてから言った。
「カクテキはただコムタンの味を引き立てるおかずくらいにしか思ってなくて、辛いか辛くないかを、わざわざ考えたことがなかったんです。」
美咲さんが笑いながら尋ねた。
「え、じゃあハルさんにとっては、カクテキって『辛くない』っていうものでもないんですか?」
「はい。」
僕の言葉に、みんなが笑い出した。




