第144話 祖母の故郷
美咲さんが少し考えてから言った。
「そういえば、カフェの店主も、日本政府が自分たちを見捨てることはないって信じていましたよね。」
「そうでしたね。」
僕はカフェの店主の言葉をもう一度思い出した。
美咲さんが綾乃さんを見て尋ねた。
「じゃあ、当時の日本政府は、韓国に残っていた日本人たちの地位や財産の問題について、どう考えていたんでしょう?」
綾乃さんが少し考えてから言った。
「問題そのものは認識していたんじゃないかと思います。ただ、当時はいろいろな状況が重なっていたでしょうから。積極的に対応するのが難しい部分もあったのかもしれません。」
「そうでしょうね。」
「正確なことは、もう少し資料を確認してみないと……。」
綾乃さんがノートパソコンへ手を伸ばそうとした、そのときだった。
僕のスマートフォンが鳴った。
画面を確認した。
南宮さんだった。
「ちょっと電話に出ますね。」
二人がうなずいた。
僕は電話に出た。
「はい、南宮さん。」
―ハルさん、今お電話大丈夫ですか?
南宮さんの韓国語が聞こえた。
僕も自然に韓国語で答えた。
「はい。大丈夫です。」
―さっき送っていただいた連絡先に電話して、お母さんとお話ししました。
「母とですか?」
―はい。いろいろ伺ってみたんですけど、思ったより手がかりになりそうな話がいくつかありました。
僕は少し座り直した。
「何ですか?」
―まず、お祖母さんの故郷がわかりました。
「どこですか?」
―全羅南道の羅州です。
「羅州ですか?」
僕は少し黙った。
そして、すぐに朴相吉氏のことが浮かんだ。
「じゃあ、朴相吉氏も羅州出身だったんですか?」
―そうです。
南宮さんは、母から聞いた話を簡単に説明した。
朴相吉氏は羅州で生まれたが、事業のため比較的早く故郷を離れたという。
釜山をはじめ、いろいろな場所を行き来しながら仕事をし、事業がある程度軌道に乗ったあと、妻と娘を釜山へ呼び寄せた。
三人の息子は先に日本へ送り、妻もその後、日本にいた息子たちのもとへ行ったという。
僕は話を聞きながら、ふと思った。
これまで、祖父が何をしていたのかはずっと確認してきた。
けれど、肝心の祖母がどこで生まれたのかを知ったのは、今になってからだった。
「じゃあ、祖母は羅州で暮らしていて、それから釜山へ行ったんですね。」
―そうみたいですけど、正確にいつ移ったのかは、もう少し確認してみないとわからないと思います。
「はい。」
―それから、もう一つあります。
南宮さんの声が少し慎重になった。
「何ですか?」
―お祖母さんのお母さん、いましたよね。日本へ行った方です。
「はい。」
―日本で亡くなったそうです。病気で。
僕は少し黙った。
「病気で亡くなったんですか?」
―はい。でも、お母さんの話を聞いていて、少し気になることがあったんです。
「どんなことですか?」
―お祖母さん、病院によく通っていたじゃないですか。
「はい。」
―お母さん、今回、親戚の方たちにも少し聞いてみたみたいなんです。正確な病名まではわからないんですけど、お祖母さんのお母さんが患っていた病気と、お祖母さんが患っていた病気が似ていたんじゃないか、という話があるそうです。
僕は何も言わなかった。
南宮さんがすぐに付け加えた。
―もしかしたら、家族歴と関係のある病気があったんじゃないかって思ったんです。もちろん、私の推測です。
その瞬間、父のことが浮かんだ。
父が亡くなったのも、もしかして同じ理由だったのだろうか。
そして、すぐ次の考えが浮かんだ。
もしかして、僕も……?
けれど、今わかっていることだけでは何も判断できなかった。
「母は、父のことについても何か言ってましたか?」
―いいえ。そこまでは詳しく聞けませんでした。お母さんも今日は、いろいろ調べている途中だったみたいで。私が電話したとき、ちょうど何か所かに確認していたところだそうです。
「そうなんですね。」
―それはあとで、ハルさんから一度直接聞いてみたほうがいいと思います。
「そうしたほうがよさそうですね。」
南宮さんが、また元の話に戻った。
―それと、故郷がわかったので、資料を見ていく方向も少し定まってきました。ただ、私は江原道の出身なので、全羅道の方言はあまりわからないんです。それで、そちらの方言に詳しい方に、いくつかの箇所について聞いてみました。
「もうですか?」
―気になったら、すぐ確認しないと。
「ありがとうございます。」
―いえ。整理できたら、また連絡しますね。
「はい。お願いします。」
少し会話が途切れた。
すると南宮さんが突然言った。
―あ、そういえば。
「はい?」
―前に私、韓国料理のお店を一軒知ってるって言ったじゃないですか。
「そうでしたね。」
―そこ、ナジュコムタンのお店なんです。
ナジュコムタン。
羅州の有名な料理だということは聞いたことがあったが、直接食べたことはなかった。
―店主さんが羅州出身で、ご自身で切り盛りしているお店なんですけど、けっこういいですよ。
「そんなところがあったんですか?」
―韓国人が多く住んでいるあたりにあります。日本人にはあまり知られてないところですし、デリバリーもしてません。お店もちょっと見つけにくいんです。
「そうなんですね。」
―だから、今度一緒に行きましょう。
僕は何も考えずに答えた。
「そうしましょう。」
言ってから、ほんの少し止まった。
考えてみれば、二人で行こうという意味にも聞こえるかもしれなかった。
僕はすぐに付け加えた。
「美咲さんと綾乃さんも一緒に行けばいいですね。」
電話の向こうが少し静かになった。
そして南宮さんが言った。
―……もちろん、そうしましょう。
「はい。」
―じゃあ、お二人に先に聞いてみてください。大丈夫そうならLINEください。
「わかりました。」
電話を切った。
スマートフォンを置いて、顔を上げた。
四つの目が僕を見ていた。
美咲さんと綾乃さんだった。
そこでようやく気づいた。
僕はかなり長いあいだ、二人の前で韓国語で電話していた。
美咲さんが先に尋ねた。
「何の話だったんですか?」
綾乃さんも言った。
「南宮さんですよね?」
「はい。」
僕は、さっき聞いた話を簡単に説明した。
「祖母の故郷がわかったそうです。全羅南道の羅州だったそうです。」
「羅州ですか?」
「はい。朴相吉氏も羅州出身だったそうです。」
二人の表情を見て、僕はスマートフォンを取り出した。
地図を開いて、羅州の場所を見せた。
「ここです。」
美咲さんと綾乃さんが画面をのぞき込んだ。
美咲さんが言った。
「全羅南道なら、韓国の南西部ですね。」
「はい。」
綾乃さんが地図を少し拡大した。
「釜山とはかなり離れてますね。」
「釜山は南東部で、羅州は全羅南道のほうですから。」
綾乃さんがうなずいた。
「じゃあ、朴相吉氏と娘さんは、もともとその地域の出身だったんですね。」
「そうみたいです。」
「資料を読むのにも役立ちそうですか?」
美咲さんが尋ねた。
「はい。方言らしい表現があったので、南宮さんが全羅道の方言に詳しい人に確認しているそうです。」
僕は少しためらってから、病気の話をした。
「それから、祖母の母親が病気で亡くなっていて、祖母も後に似た病気を患っていた可能性があるそうです。まだ確かなことではありません。」
美咲さんの表情が少し真剣になった。
「同じ病気だった可能性もあるってことですか?」
「その可能性もある、という程度です。」
綾乃さんが少し考えた。
「それなら、病院関係の資料がほかにもあれば、別にまとめておいたほうがよさそうですね。」
「はい。」
少しして、綾乃さんが僕を見て尋ねた。
「ところで。」
「はい?」
「さっき電話しているとき、私たちの名前が出てきたような気がしたんですけど。」
「……。」
美咲さんもすぐに言った。
「私も聞こえました。美咲と綾乃。」
韓国語がわからなくても、名前まで聞き取れないわけではなかった。
僕は説明した。
「南宮さんが、ナジュコムタンを食べに行こうって言ったんです。」
「ナジュコムタンって何ですか?」
美咲さんが尋ねた。
綾乃さんも興味を示した。
「祖母の故郷の羅州で有名な料理です。僕はまだ食べたことないんですけど。」
僕はノートパソコンで検索した。
日本語の説明も簡単に見つかった。
写真を開いて、二人に見せた。
美咲さんが画面を近くからのぞき込んだ。
「おいしそうですね。」
綾乃さんも画面を見てから言った。
「じゃあ、今日の夕食はそれにしましょう。」
「今日ですか?」
「食べてみたいじゃないですか。」
あまりにも当然のような口調だった。
「南宮さんが知ってるお店があるって言ってましたよね?」
「はい。」
「じゃあ、聞けばいいですね。」
僕は少し考えてから言った。
「じゃあ、南宮さんをLINEのグループに招待しますか?」
美咲さんと綾乃さんが互いを見た。
そして突然、テーブルの向こうで小声で相談し始めた。
僕は二人をしばらく見ていた。
いつの間にあんなに仲良くなったんだ。
少しして、綾乃さんが僕を見た。
「まだグループに入ってもらうのは、ちょっと微妙じゃないですか?」
「そうですよね?」
僕も同じように考えていた。
「南宮さんには今、一部の資料だけ一緒に確認してもらっている状況ですよね。これからどのくらい一緒に調査することになるかも、まだわかりませんし。」
美咲さんも言った。
「それに、南宮さんのほうからグループの話をしたわけでもないですしね。」
「じゃあ、僕から個別に聞いてみます。」
「それがいいと思います。」
僕はスマートフォンを持った。
その瞬間、美咲さんが言った。
「ちょっと待ってください。」
「どうしてですか?」
「今回は、私たちにもわかるように日本語で送ってください。」
美咲さんが笑った。
「日本語で!」
僕も笑った。
「わかりました。」
すると綾乃さんが付け加えた。
「それと、南宮さんにどうして急に日本語で送るのかって聞かれても、私たちがそうしてって言ったとは言わないでくださいね。」
「それもわかりました。」
僕はLINEを開いた。
[今日の夕方、時間ありますか?
せっかくなので、さっき話していたナジュコムタンをみんなで食べに行きませんか?]
メッセージを送った。
美咲さんと綾乃さんが一緒に画面を確認した。
「これでいいですよね?」
「はい。」
「完璧です。」
少しして、返事が来た。
[大丈夫です。]
そして、すぐに次のメッセージが続いた。
[私が車を出します。
皆さん、私の車で一緒に行きましょう。]
もう一行届いた。
[あそこは道が狭いですし、初めてだと少し分かりにくいので。]
僕は画面を二人に見せた。
美咲さんが言った。
「じゃあ、そうしましょう。」
綾乃さんもうなずいた。
僕はもう一度返事を送った。
今夜は、南宮さんの車でナジュコムタンを食べに行くことになった。




