第143話 コインの裏表ですか?
綾乃さんが時間を確認した。
「少し下に行きますか?」
「そうしましょう。」
僕たちは一階へ下りた。
冷蔵庫からお茶を取り出し、お菓子も持ってきた。
「カフェの店主が言ってた『カフェも寂しくなるな』って言葉、ずっと頭に残ってるんです。」
綾乃さんの言葉に、僕も応じた。
「僕もです。」
「でも、さっき林さんが言ってた名字のことですけど。」
美咲さんに尋ねられ、僕は彼女を見た。
「韓国にも本当に同じ名字があるんですか?」
「あります。日本では林をハヤシと読みますけど、韓国ではイムと読むんです。」
僕は検索して画面に表示した。
林
美咲さんが画面をのぞき込んだ。
僕は検索結果をもう少し確認した。
「思ったより多いですね。」
「どのくらいいるんですか?」
「2015年の人口調査では82万人以上います。韓国で十番目に多い名字ですね。」
綾乃さんが言った。
「それだけいるなら、本当に多い名字ですね。」
「はい。」
美咲さんがお菓子を一つ取りながら言った。
「じゃあ、林さんがああ考えたのにも理由はあったんですね。」
「そうですね。」
「韓国にも島って多いんですか?」
「多いです。特に南と西に多いですね。」
僕は検索してみた。
「3,300以上あるんですね。」
「そんなにあるんですか?」
「はい。」
美咲さんがうなずいた。
「それなら、林さんが島へ行こうと考えたのもわかる気がします。」
綾乃さんが言った。
「でも、日本へ戻る人たちが、朝鮮に残してきた財産のことを日本政府に訴えるって話してましたよね。」
「はい。」
「実際にそういう話があったのか、調べてみようと思います。」
綾乃さんが日本側の資料を検索し始めた。
しばらくして画面を見ていた綾乃さんが言った。
「ありますね。」
「本当ですか?」
「はい。平和条約の批准をめぐる時期の日本の国会でも、在外財産、その中でも朝鮮にあった財産について議論されています。」
綾乃さんが画面を指した。
「カフェの人たちが話していた時期と近いんですか?」
「ほとんど同じ時期です。平和条約を批准していたときにも議論されてますし、発効直前にも在外資産の問題が引き続き取り上げられています。」
僕はさっき読んだカフェの人たちの会話を思い出した。
「じゃあ、日本へ戻って政府に訴えてみようっていうのも、当時としては現実的な考えだったんですね。」
「そうだったみたいです。」
美咲さんが少し考えてから言った。
「そういえば、反対側もありましたよね。」
「反対側ですか?」
「日本で暮らしていて、朝鮮戦争に参戦するために来た四人です。」
彼らが食事をしながら交わしていた会話を思い出した。
綾乃さんが言った。
「在日韓国人の法的地位の問題も、その後ずっと議論されていました。」
綾乃さんが後年の資料を確認した。
「1965年に、日本と韓国の間で在日韓国人の法的地位と待遇に関する協定が結ばれています。」
美咲さんが尋ねた。
「どんな内容なんですか?」
「戦前から日本に住み続けていた人たちと、一定範囲の子孫が永住許可を受けられる制度が設けられ、教育や生活保護などの問題もあわせて扱われています。」
綾乃さんが画面をもう少し見た。
「でも、交渉の過程も興味深いですね。」
「どんなところがですか?」
「朴正煕政権が、永住権をかなり強く求めていたんです。」
綾乃さんが画面を指した。
「在日韓国人の特殊な歴史的背景を考慮して、韓国側は子々孫々にまで永住権が認められるべきだと強く主張していたそうです。」
美咲さんが尋ねた。
「日本側は?」
「子々孫々にまで永住を認めることを、協定で約束することはできないという立場だったみたいです。」
「それで、どうなったんですか?」
「最終的には一定範囲の子孫に永住許可を与えて、それ以降の世代の居住問題については、あとで改めて協議する形で合意したんです。」
僕は画面を見た。
「朴正煕政権は、在日韓国人が日本で暮らし続けられる権利を確保するために、かなり努力していたんですね。」
「そう見ることもできそうですね。」
綾乃さんがもう少し検索した。
「それから1965年に、それ以降の世代の居住問題はあとで改めて協議することに合意してましたよね。その協定に基づいて、1988年から韓国政府との間で何度も協議が行われたんです。」
「そのあとはどうなったんですか?」
「1991年に、特別永住者の制度を定めた法律が制定されました。」
僕は少し計算した。
「1952年から、ほぼ40年後ですね。」
「そうですね。」
「それなら、本当に長く続いた問題だったんですね。」
僕はお茶を一口飲んだ。
「カフェに出てきた人たちの財産問題と、在日韓国人の法的地位の問題は同じ問題ではないでしょうけど、だからといって、まったく別の問題でもない気がします。」
僕は硬貨を一枚取り出した。
「ある意味、コインの裏表みたいな問題なのかもしれません。」
「コインの裏表ですか?」
「帝国が解体されたあとに生まれた問題だという共通点がありますから。」
僕はこれまで確認してきた記録を思い返した。
帝国は消えたが、帝国の中で生きていた人々はそのまま残っていた。
彼らに残された問題は、帝国という名が残した負債とも言えた。
◆◆◆
平和条約と在外財産――講和条約批准・発効前後の日本国会での議論
1951年9月8日、サンフランシスコで日本と連合国との間の平和条約が署名された。
その後、日本の国会では平和条約の批准とともに、海外に残された日本側の財産問題についても議論された。
1951年10月31日に開かれた第12回国会参議院「平和条約及び日米安全保障条約特別委員会」第7号で、加藤正人は在外財産補償問題について質問し、次のように述べた。
「朝鮮、満洲、中国、フィリピン、その他に非常に多大の資産を残して」
朝鮮、満洲、中国、フィリピンなどを直接挙げ、海外に残された莫大な財産を簡単に処理できる問題ではないと主張し、個人の在外財産について日本政府がどのように対応するのかを質問した。
出典:
第12回国会 参議院
平和条約及び日米安全保障条約特別委員会 第7号
昭和26年10月31日
平和条約の発効を控えた1952年にも、在外財産に関する議論は続いた。
1952年4月17日に開かれた第13回国会衆議院大蔵委員会第52号で、日本政府側説明員の堀口定義は、正確な資料が十分ではないことを前提に、閉鎖機関に関係する在外資産を終戦当時の時価で約2,700億円、在外負債を約2,400億円と推計した。
主な在外資産の地域としては、満洲、北中国、中部中国とともに、朝鮮と台湾も挙げられた。
出典:
第13回国会 衆議院
大蔵委員会 第52号
昭和27年4月17日
1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効した。
しかし、平和条約の発効が在外財産問題の終了を意味したわけではなかった。
1952年5月23日に開かれた第13回国会衆議院外務委員会第26号では、林百郎が中国大陸などに残された日本国と日本国民の財産がどのような地位に置かれるのか、在外財産の補償も含めて政府がどのように対応するのかを質問した。
政府側は、関連事項はまだ決まっておらず、さらに研究や対策が必要になる可能性があるという趣旨で答弁した。
出典:
第13回国会 衆議院
外務委員会 第26号
昭和27年5月23日
◆◆◆
在日韓国人の法的地位――日本外務省資料
1965年の日韓国交正常化交渉では、在日韓国人の永住権と待遇の問題も主要な争点の一つだった。
日本外務省の1965年の外交資料には、永住許可の範囲をめぐる交渉について、在日韓国人の特殊な歴史的背景を考慮し、子々孫々にまで永住権が認められるべきであるとの韓国側の強い主張があったと記録されている。
「子々孫々にまで永住権が認められるべきであるとの韓国側の強い主張」
日本外務省の資料は、このため交渉が難航したと説明している。
日本側は、子々孫々にまで永住を認めることを協定で約束することはできないという立場だった。
最終的には、戦前から日本に引き続き居住していた人々と一定範囲の直系卑属に永住許可を与え、それ以降の世代の居住問題は後日改めて協議する形で合意された。
教育や生活保護など、在日韓国人の待遇に関する問題もあわせて扱われた。
出典:
日本外務省
「わが外交の近況」1965年版
「アジア(西アジアを除く)地域」
「在日韓国人の待遇問題」
1965年に締結された「日本国に居住する大韓民国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定」では、一定の要件を満たす在日韓国人と直系卑属に対する永住許可と、その待遇について定められた。
日本外務省の1966年の外交資料にも、永住許可の範囲とともに、教育、生活保護、国民健康保険などに関する内容が記録されている。
出典:
日本外務省
「わが外交の近況」1966年版
「在日韓国人の法的地位協定」
それ以降の世代の法的地位の問題も続いた。
日本外務省の資料によると、1965年の協定でそれ以降の世代の居住問題を改めて協議することにした合意に基づき、1988年から韓国政府と日本政府の間で複数回の協議が続き、1991年には関連する協議が決着した。
その結果を踏まえ、「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」が1991年5月に公布され、同年11月に施行された。
この法律により、平和条約の発効によって日本国籍を離脱した人々とその子孫に、特別永住者という法的地位が設けられた。
第五部は、ここまでです。
帝国がなくなったあとも残された、人々の名前や国籍、帰る場所をめぐる物語を描いてきました。
次回から第六部が始まります。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




