第142話 カフェも寂しくなるな
久しぶりに訪れたカフェは、以前とは少し雰囲気が変わっていた。
席が足りないこともあったのに、この日は空いているテーブルのほうが先に目に入った。
カフェの店主が私に気づいた。
「佐伯。久しぶりだな。」
「お久しぶりです。」
私は奥の席に座った。
もう一度周囲を見回してから尋ねた。
「皆さん、どこへ行ったんですか?」
店主がカップを置きながら言った。
「来なくなったやつが増えたんだ。」
「何かあったんですか?」
「日本へ帰る準備をしてるやつもいるし、何かあったやつもいる。」
「何かあったんですか?」
「ああ。それがな。」
店主は少し周囲を見回してから、声を落とした。
「石田が刺された。」
「え? どうしてですか。」
何度か顔を見たことのある男だった。
「あの人、運転の仕事をしてるって言ってましたよね?」
「ああ。あいつは本当に運が悪かった。いや、こんな言い方をしていいのかな。もしかしたら、昔きちんと償えなかったことの代償を、今になって払ったってことなのかもしれない。」
「どういうことですか?」
「石田は終戦直前、酒を飲んで車を運転して、朝鮮人の少年を一人轢いて死なせたことがあったんだ。そのとき処罰は受けたんだが……。」
店主は、どんな処罰だったのかについては言葉を濁した。
「とにかく、当時の被害者の家族からすれば、それでは納得できなかったんだろう。」
「そうですか……。」
「ところが、よりによって石田がまだ釜山にいるってことを、被害者の家族が知ったんだ。」
「それは……。」
「石田も油断しすぎたんだ。俺ならできるだけ身を隠すか、日本へ行ってたと思うけどな。」
「運転の仕事をしないといけなかったから、そうもできなかったんでしょう。」
「まあな。とにかく、顔を知ってる誰かが石田を見かけた。それで被害者の家族に知らせて、結局、刃物沙汰になったってわけだ。」
亡くなった少年の父親が石田を訪ねてきて、刃物で刺したという。
「石田はその場で死んで、警察が来て刺した男を逮捕したそうだ。」
「そうですか。」
店主はもう一度周囲を見回してから言った。
「あの事件のあと、終戦前に朝鮮人から恨みを買うようなことをしてたやつらが、日本へ行くって荷物をまとめ始めた。」
講和条約に不満を持って釜山を離れようとしていた者たちに続いて、今度は身の危険を感じた者たちも日本へ行く準備を始めた。
店主が空いている席を見た。
「残ってる財産をできるだけ整理するので忙しくて、ここに来る暇もなくなったんだ。」
「そうでしょうね。」
そのとき、一人の男が入ってきた。
「大西、来たのか?」
彼は適当に挨拶を交わしてから、コーヒーを一杯頼んだ。
「なんでそんなに忙しいんだ?」
「ちくしょう、奪われた財産をどうにか取り戻してから日本へ行こうと思ってたんだが……。」
「結局、諦めたのか?」
「朝鮮人どもに奪われた財産をそのままにして、日本へ行けるかよ。それを取り戻そうとして今まで粘ってたのに……結局諦めた。」
彼は首を横に振った。
「朝鮮人に奪われたんじゃなくて、米軍に奪われたんだろ。」
店主がコーヒーを渡しながら言った。
「同じようなもんだろ。結局、アメリカのやつらがあとで朝鮮人に安く売ったじゃないか。」
「だから、俺が前に……。」
店主はそう言いながら、私をちらりと見た。
「佐伯に仲介してもらって、朴さんに渡せって言っただろ。」
「ちくしょう。そうしとけばよかった。手数料が少し高くても、そうしてりゃとっくに金を手にして日本へ行けてたのに。」
大西も私をちらりと見てから、コーヒーを一口飲んだ。
私も思い出した。
大西は、朴相吉氏が提示した手数料が高いと言って、私の仲介を断っていた。その後、彼の財産は軍政庁によって没収された。
「残ってた財産もどうにか整理した。もう日本へ行く。ここにはもう希望が見えない。」
私は慎重に尋ねた。
「日本へ戻ってからは、どうするつもりですか?」
「政府に請願する。」
「請願ですか?」
「朝鮮で奪われた財産を補償してくれって言うつもりだ。」
「そうですか。」
私は適当にうなずいた。
「このまま何もしないつもりはない。必ず奪われた財産を取り戻す。」
「うまくいくといいですね。」
大西はコーヒーを飲み終えると、すぐ行かないといけないと言って立ち上がった。
彼が出ていったあと、店主が私に言った。
「大西みたいに考えてるやつは多いよ。」
「そうなんですか?」
「仕方なく釜山を離れて日本へ行くけど、戻ったら日本政府に何とかしてもらうつもりだって言ってる。」
「そうですか。」
店主が苦笑した。
「さっき出ていった大西も、一生ここで暮らしてきたんだ。あんたみたいに朝鮮出身だよ。」
「そうだったんですか?」
「朝鮮で一生暮らしてきたのに、ある日突然、全部なかったことにはできないってことだ。」
私は何も言わずに聞いていた。
「大日本帝国の時代に朝鮮で暮らしてた日本人に対して、今の日本政府が何か手を打つべきだって考えてるやつは多い。俺も、その気持ちはわかる。」
「店主さんも日本へ戻るんですか?」
「俺?」
「日本へ戻らないんですか?」
店主が笑った。
「俺はここに残るよ。」
「決めたんですか?」
「妻もここにいるし、店もある。」
彼はカフェの中を一度見回した。
「今さら、ここにあるものを全部捨てて、日本へ戻って何をするんだ。」
店主は韓国人の妻と暮らしていた。
店も妻の名義になっていると、以前聞いたことがあった。
「俺は残るけど、日本へ戻るやつらにはうまくいってほしいよ。」
店主がカーテンを少し開けて、窓の外を見た。
「ここで失ったものが多すぎるからな。」
少しして、彼が付け加えた。
「まさか日本政府が俺たちを見捨てるわけないだろ。」
私は彼の言葉に軽くうなずいた。
そのとき、カウンターの奥へ続く裏口が開いた。
一人の男が中へ入ってきた。
以前カフェで何度か見たことのある森田さんだった。
店主が彼を見て言った。
「久しぶりだな。」
「ああ。」
森田さんは空いている席に座りながら言った。
「俺も戻ることにした。」
彼は日本へ戻ることには反対していたが、気が変わったようだった。
「石田の件も、ずっと気になっててな。」
私は森田の以前の仕事を思い出した。
警察関係の仕事をしていたと聞いていた。
実家に金があり、終戦後もその財産を管理するためにここへ残っていた人だった。
「昔、俺が爪を何枚か剥いでやった不逞鮮人がいたんだよ。あいつらが仕返しに来たらどうする。」
彼は冗談のように言ったが、私は笑えなかった。
不逞鮮人。日本の統治に反対していた朝鮮人を、当時の日本人はそう呼ぶこともあった。
彼らは捕まるとすぐに苛酷な拷問を受けたという噂を聞いたことがあった。
森田は爪を何枚か剥いだと言ったが、もっとひどい拷問もしていたのかもしれなかった。
「手段は見つかったのか?」
「見つかった。」
森田さんが少し声を落とした。
「密航船だ。」
店主がうなずいた。
「いつ?」
「もうすぐ。」
「準備は済んだのか?」
「だいたいな。」
森田さんがため息をついた。
「持ってる金もドルに替えた。」
「全部?」
「ほとんど。」
彼が顔をしかめた。
「でも、闇ドルの相場が高すぎる。ちくしょう。」
「それは仕方ないな。」
「朴さんがずっと手伝ってくれてりゃ、もう少し楽だったんだけどな。」
朴さんという言葉に、私は自然と耳を傾けた。
森田さんが言った。
「最近はあの人も、こういうことからかなり手を引いただろ。前みたいには頼みにくいし。」
店主が笑った。
「昔は、朴さんは手数料を取りすぎるって文句言ってなかったか?」
「そのころはな。」
二人は笑ってから、同時に私をちらりと見た。
森田さんが先に言った。
「冗談だよ、冗談。」
そして手を振った。
「朴さんにはずいぶん助けてもらった。俺もそれはわかってる。」
彼はもう少し話をしてから席を立った。
「とにかく、挨拶しに来たんだ。次にまた会えるかはわからないけどな。」
店主が言った。
「日本へ行っても元気でな。」
森田さんが私を見た。
「佐伯も元気でな。」
「森田さんも、お元気で。」
彼は入ってきた裏口から再び出ていった。
扉が閉まったあと、店主が言った。
「森田のやつ、本当に怖いもの知らずだよな。俺なら終戦したらすぐ日本へ逃げてたけどな。」
「それほど財産に未練があったんでしょうか。」
「まあな。金もないまま日本へ行くわけにもいかなかったんだろ。それに、日本へ行った帰還者たちがどんな目に遭ってるかって話も聞こえてきてたしな。」
店主が複雑そうな表情で言った。
「それと、朴さんもずいぶん変わったよ。」
「朴相吉氏のことですか?」
「ああ。最近は、立派な実業家みたいな顔してるよ。」
「立派な実業家みたいな顔ですか?」
「昔みたいに、何にでも手を出すことはなくなったみたいだ。」
彼はカップを拭きながら言った。
「今は、まともな商売のほうへかなり移ってるみたいだな。」
「そうですか。」
「でも、昔からの知り合いを全部忘れたわけじゃない。」
店主が笑った。
「自分が仲介した連中のことは、最後まで面倒を見てる。そういうところはありがたいよ。」
朴相吉氏も、少しずつ以前とは違う仕事をするようになってきたらしい。
少しして、また裏口が開いた。
「お、佐伯。」
「林さん。」
「久しぶりだな。」
「お久しぶりです。」
店主も彼を見て言った。
「最近まったく顔を出さなかったのに、どうしたんだ?」
林さんが笑った。
「最後に挨拶くらいしておこうと思ってな。」
店主の手が止まった。
「最後?」
「南の島へ行くことにした。」
「島へ?」
「ああ。」
「そこで暮らすのか?」
「ああ。知り合いがいる。」
林さんが空いている席に座った。
「街でずっとこんなふうに暮らすより、島へ入って避難民のふりでもして、静かに暮らすほうがいいと思ってな。」
「もう決めたのか?」
「決めた。」
彼は少し考えてから言った。
「俺みたいに島へ行くってやつも何人かいる。」
「そうか。」
「俺が朝鮮に来たのは、まだ記憶もない二歳のころだ。それからずっと朝鮮で暮らしてきたのに、今さら日本へ行って、朝鮮訛りだからって差別されたくもないしな。もうここで暮らすことにした。」
店主がうなずいた。
「まあ、朝鮮出身だっていうだけで、帰還者がかなり苦労してるって話は時々聞くな。」
林さんが続けた。
「それでも俺は、まだ運がいいほうだ。」
「何が?」
「俺の姓だよ。」
林さんが指でテーブルの上に字を書いた。
林
「それがどうした?」
「朝鮮にも同じ字を使う姓があるだろ。」
私はその字を見た。
「こんなことを運がいいって言っていいのかわからないけど、とにかく俺は今の姓をそのまま使えばいい。朝鮮の姓と区別がつかないからな。」
店主はしばらく彼を見ていた。
「本当に行くんだな。」
「ああ。」
「いつ?」
「もうすぐ。」
林さんはカフェの中をゆっくり見回した。
以前、一緒に座って話していた人たちの席にも目を向けた。
「ここもずいぶん空いたな。」
店主が言った。
「みんな、それぞれ自分の生きる道を探してるんだよ。」
「そうだろうな。」
林さんが席を立った。
「長居はできない。今日は本当に挨拶しに来ただけだから。」
彼が私を見た。
「佐伯も元気でな。」
「林さんも、お元気で。」
店主にも言った。
「今までありがとう。」
「ああ。」
店主が短く答えた。
「元気で暮らせよ。」
林さんが裏口を開けた。
出ていく前に、一度振り返った。
「みんな、元気でな。」
扉が閉まった。
店主は空いている席をしばらく眺めていた。
「カフェも寂しくなるな。」




