第141話 後ろ盾ですか?
南宮さんはすぐに帰るのかと思っていたが、残ってもう少し資料を調べると言った。
綾乃さんがすぐに二階へ連れていったので、それ以上話をすることはできなかった。
美咲さんも忙しいのか、いつもと違って何も言わずにノートパソコンばかり見ていたので、僕もノートパソコンを開き、会社の業務引き継ぎに関する資料を整理した。
時間はあっという間に過ぎ、いつの間にか昼食の時間が近づいていた。
南宮さんが綾乃さんと一緒に下りてきた。
「お昼はデリバリーにしましょう。」
綾乃さんの提案に、南宮さんもいいと言った。
僕もそれでいいと思い、美咲さんも同意した。
「何が食べたいですか?」
綾乃さんに尋ねられ、南宮さんが少し考えた。
「私は辛いものじゃなければ大丈夫です。辛いものが苦手なので、日本だとかえって食べ物を選びやすいんですよ。」
「僕もです。」
僕がそう言うと、綾乃さんが僕を見た。
「私はもう、韓国の人が『辛いもの苦手です』って言うのは信じないことにしました。」
美咲さんも笑いながら同意した。
「私もです。」
「どうしてですか?」
南宮さんが不思議そうに尋ねた。
僕は昨日のことを簡単に説明した。
「昨日、タコスを食べたんです。僕は辛くないって言ったんですけど、二人は辛いって言ってて。」
「あ。」
それを聞いた南宮さんが笑った。
「私も似たようなことがありました。」
「どんなことですか?」
「前に一緒に働いていた人たちから、辛いペッパー味のお菓子があるから食べてみてって言われたんです。それで私、『辛いもの苦手なんです』って言ったんですよ。」
美咲さんはもう笑い始めていた。
「私が辛いものは苦手だって手を振って断ったんですけど、韓国人なら辛いものが得意でしょうって言われて。」
南宮さんが首を振った。
「それで、韓国人だからってみんな辛いものが得意なわけじゃないって言ったんです。そういうのは偏見ですよって。」
「そうですよ。」
僕がうなずくと、今度は綾乃さんも笑い始めた。
「でも、ずっと一つだけ食べてみてって言われたので、結局一つ食べたんです。」
「辛かったですか?」
綾乃さんが尋ねた。
「いいえ。全然辛くなかったです。それで私、『これ、辛くないですよ?』って言ったんです。そのまま何個か食べてたら、隣にいた別の人が『そうなの? 辛くないのかな』って一つ食べてみたんですよ。」
南宮さんが少し言葉を止めた。
「そしたら、食べた瞬間に『辛いです!』って。それからは、私が『辛くないです』って言っても誰も信じてくれなくなりました。」
それを聞いて、僕も笑った。
綾乃さんが言った。
「私もこれから、ハルさんの『これ辛くないですよ』は信じません。」
「私もです。」
「納得いかないです。本当に辛くなかったんですよ。」
僕がそう言うと、みんなまた笑い始めた。
しばらくして、美咲さんがデリバリーアプリを確認した。
「ベトナム料理はどうですか?」
「いいですね。」
南宮さんが先に答え、僕と綾乃さんも賛成した。
僕たちはフォーと、いくつかの料理を注文した。
しばらくして料理が届いた。
蓋を開けると、温かいスープの香りが立ち上った。
細い米麺の上に牛肉とねぎが載っていて、もやしとライムも別に入っていた。
パクチーは別に包装されていた。
パクチーは独特の強い香りがある香味野菜で、ベトナムをはじめいろいろな国の料理に使われているが、僕の好みにはあまり合わなかった。
美咲さんがパクチーを見て言った。
「私はこれ、入れません。ちょっと香りが強いので。」
「私もです。」
綾乃さんもうなずいて言った。
「好きな人も多いみたいですけど、私は石鹸みたいな香りに感じて、ちょっと苦手なんです。」
南宮さんが笑った。
「私も似たような感じです。韓国でも好きな人はよく食べますけど、私はたくさんは食べられなくて。」
僕も同意した。
「僕もです。パクチーを入れておいしそうに食べてる人を見ると、ちょっと羨ましくはありますけど。」
美咲さんが笑った。
「これはみんな同じですね。」
「そうですね。」
結局、誰もパクチーを入れなかった。
美咲さんが言った。
「次からは注文するときに、最初からパクチー抜きで頼んだほうがよさそうですね。」
「そうですね。」
別添えになっているところを見ると、好みで入れるようになっているのだろう。
僕は久しぶりにフォーのスープを一口飲んだ。
「味、大丈夫ですか?」
美咲さんが尋ねた。
「はい。おいしいですね。」
香りには少し馴染みがなかったが、スープは味がしっかりしているのに重くなかった。
米でできた麺も柔らかかった。
「韓国で食べた味と似てます。」
南宮さんが言った。
綾乃さんが尋ねた。
「韓国でもフォーってよく食べるんですか?」
「はい。ベトナムの方がやっているお店もありますし、専門店もたくさんありますよ。」
僕たちはフォーを食べながら、もう少しいろいろな話をした。
「持ってきてくださった生もみじ、おいしかったです。」
「おいしいでしょう? 私が好きなお菓子なんです。」
食事を終えると、南宮さんが席を立った。
「今日見た資料は、もう少し整理してから連絡しますね。」
「お願いします。それと、母にも午前中にカカオトークのメッセージを送っておきました。」
「はい。出身地域や、以前住んでいた場所がわかれば参考になると思います。」
南宮さんは僕たちにもう一度挨拶をして、研究所を出ていった。
僕たちは一階を片づけてから、また上の階へ上がった。
今度は祖父の記録をもう一度確認する時間だった。
綾乃さんがモニターの画面を見せた。
ノートには普通の記録が続いていた。
やがて、検閲についての内容が出てきた。
釜山から検閲官が来ると聞いた。
前回の検閲官にまた面倒なことをされないか心配した。
だが今回は、私について特に何も言われなかった。
むしろ検閲官たちは、私に対して慎重に接していた。
理由はわからなかった。
僕はそこで少し止まった。
「前回とは雰囲気が違いますね。」
美咲さんが言った。
「そうですね。」
次の記録を読んだ。
数日後、同僚から妙な話を聞いた。
私には後ろ盾がいるという噂が広まっている、と同僚は言った。
ソン大尉がそんな話をしていたという。
綾乃さんが言った。
「後ろ盾ですか?」
「そう書いてありますね。」
僕は次の部分を確認した。
最初は朴相吉氏のことが浮かんだ。
だが、彼が私のために手を回してくれたのは、もうずっと前のことだった。
ソン大尉とも関係がなかった。
誰がそんな噂を言い出したのかはわからなかった。
美咲さんが慎重に言った。
「もしかして、あのときの背広姿の男じゃないですか?」
僕も同じことを考えていた。
「僕もさっき、そう思いました。」
綾乃さんが尋ねた。
「お祖父さんを呼び出した人ですか?」
「はい。」
以前読んだ記録を思い出した。
背広姿の男が祖父を呼び、提出された報告書を直接確認して、祖父に感謝の言葉まで伝えていた。
そして、その場にはソン大尉もいた。
美咲さんが言った。
「そのとき、ソン大尉はあの人の前でずっと直立不動だったんですよね?」
「そうでした。」
綾乃さんが少し考えた。
「それを見ていたなら、ソン大尉が佐伯さんには何か後ろ盾があると思った可能性もありますね。」
「それで、その話をほかの人たちにした可能性もありますし。」
「その背広姿の男って、いったい誰だったんでしょう?」
だが、ここには何の情報もなかった。
次の記録へ進んだ。
巨済での勤務が終わった。
私は再び釜山へ戻った。
釜山へ戻ってから、久しぶりにあのカフェを訪れた。
「あのカフェって?」
「韓国に残っていた日本人たちが集まるカフェですよね?」
僕は、そこで祖父がどんな話をしたのか気になりながら、次の内容を確認した。
ノートには、カフェでの出来事が長く書かれていた。
それを読み進めるうちに、そのときの状況が頭の中に浮かび始めた。




