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140/212

第140話 何の話だったんですか?

翌朝。


僕たちは研究所で南宮熙さんを待っていた。


ふと綾乃さんが言った。


「そういえば、最初は南宮さんの名字を勘違いしてたんです。」


「どういうふうにですか?」


僕が尋ねると、綾乃さんが言った。


「学会で初めて会ったとき、名前が南宮熙って書いてあったんです。私は『南』が名字で、『宮熙』が名前だと思ってました。それまで会った韓国人は、みんな名字が漢字一文字だったので。」


「そう思ってもおかしくないですね。」


「あとで、南宮(ナムグン)が名字だって聞きました。」


僕はうなずいた。


「韓国では南宮っていう名字は知られてるので、あまり間違えないかもしれませんけど、綾乃さんならそう思っても不思議じゃないですね。」


美咲さんが尋ねた。


「韓国にも、漢字二文字の名字ってあるんですか?」


「はい。多くはないですけど、あります。」


僕はノートパソコンで少し検索してみた。


「南宮(ナムグン)もありますし、皇甫(ファンボ)、諸葛(チェガル)、鮮于(ソヌ)、独孤(トッコ)みたいな名字もあります。」


「思ったよりいろいろあるんですね。」


「それから、少し変わった例もあります。」


検索結果をもう少し下へ送った。


「網切(マンジョル)、荒木(ファンモク)……。」


美咲さんが画面を見た。


「これも、もともと韓国の名字なんですか?」


「日本の名字の漢字を韓国式の漢字音で読んで、そのまま名字として使うようになった例だそうです。」


僕は荒木という名字をもう少し調べた。


「プロ野球選手にも、ファンモクという名字の人がいたみたいです。」


「本当ですか?」


「はい。漢字では荒木って書くんですけど、日本では『あらき』、韓国では『ファンモク』って読むんです。」


そのとき綾乃さんが自分のスマートフォンを確認した。


「研究所の前に着いたそうです。ちなみに、私より少し年下です。でも実際に会うと、もっと年下に見えますよ。」


しばらくして、一人の女性が研究所の中へ入ってきた。


綾乃さんの言ったとおり、実際の年齢よりかなり若く見えた。


綾乃さんが席を立った。


「南宮さん、お久しぶりです。」


「お久しぶりです。」


二人は久しぶりの再会を喜び、挨拶を交わした。


綾乃さんが僕たちを紹介した。


「こちらがキム・ハルさんで、こちらが美咲さんです。」


僕は席を立った。


「こんにちは。キム・ハルです。」


韓国語で挨拶した。


すると南宮さんも韓国語で返した。


「南宮熙です。よろしくお願いします。」


美咲さんとは日本語で挨拶を交わした。


南宮さんが美咲さんに尋ねた。


「美咲さんって呼んでもいいですか?」


「はい。そう呼んでください。」


南宮さんが僕たちに名刺を渡した。


韓国の地方にある国立大学の国語国文学科に所属していて、今は日本の大学に客員研究員として滞在していた。


「今は研究交流で日本に来ています。」


「そうなんですね。」


南宮さんは持ってきた紙袋をテーブルの上に置いた。


「来る途中で買ってきたんですけど、どうぞ。」


中にはお菓子の箱が入っていた。


美咲さんが箱を見て言った。


「にしき堂の生もみじですね。」


僕は初めて見るものだったので、そういうお菓子なんだと思った。


「ただ、もともとの専門は中世韓国語なんです。こういう近現代の個人資料は、私の専門そのものではないんです。」


「じゃあ、確認するのは難しいですか?」


「とりあえず、私が見られるところまでは見てみます。わからないところは、その分野に詳しい方に聞けばいいですし。」


綾乃さんが言った。


「じゃあ、上に行って一度確認してみましょう。」


南宮さんがうなずいた。


「私が先に上で確認してから、気になることを質問してもいいですか?」


「はい。そうしてください。」


「じゃあ、お二人は少し待ちながら、お菓子でも食べててください。」


綾乃さんと南宮さんが上の階へ行き、僕と美咲さんは一階に残った。


「食べてみますか?」


僕はお菓子の箱を開けた。


中には紅葉の葉の形をしたお菓子がいくつも入っていた。


見た目は饅頭に似ていたが、一口食べてみると思ったよりもちもちしていた。


「おいしいですね。」


少し時間が経つと、美咲さんが上の階を見た。


「思ったより時間かかってますね。」


僕はもう一つお菓子を取った。


日本に来て、本当にいろいろなお菓子を食べていた。


そのとき、階段から足音が聞こえた。


綾乃さんと南宮さんが下りてきた。


南宮さんは席に着くとすぐ、僕に尋ねた。


「ハルさん、お祖母さんの故郷がどこだったかはご存じですか?」


僕はすぐには答えられなかった。


「正確にはわかりません。」


考えてみれば、祖母と釜山で会ったという記録はあったが、だからといって故郷まで釜山だとは言えなかった。


当時の釜山には、韓国各地から人が集まっていた。


南宮さんがもう一度尋ねた。


「生まれた場所とか、子供のころに暮らしていたところもわかりませんか?」


「はい。それは母に聞いてみないとわからないと思います。」


「できれば一度確認してみてください。どの地域で暮らしていたのかわかれば、表現を確認する手がかりになるかもしれません。」


僕は少し考えてから言った。


「よければ、母と直接話してもらってもいいですよ。」


「いいんですか?」


「僕から先に母に話しておきます。大丈夫だと言ったら、連絡先も送ります。」


「そのほうがいいですね。」


「判読するのはかなり難しいですか?」


南宮さんが少し考えてから答えた。


「かなり崩した字で書かれていますし、地域語らしい表現もけっこう混じっているようです。紙の状態もよくないので、今のままだと読みづらいところもかなりあります。」


「そうなんですね。」


南宮さんが綾乃さんを見た。


「研究所で修復してもらえれば、私がもう一度確認してみます。綾乃さん、できますよね?」


「はい。問題ないです。」


僕が尋ねた。


「じゃあ、どんな資料なのかはわかったんですか?」


「はい。手紙を出す前に書いておいた草稿みたいです。」


「手紙の草稿ですか? 途中まで書いてやめた手紙ってことですか?」


「その可能性もあります。書いている途中で気が変わって出さなかったのか、最初から下書きとして書いておいたのかは、まだわかりません。」


僕は少し考えた。


日本にいる弟たちへ送ろうとして、途中まで書いた手紙だったのだろうか。


「内容はどこまでわかりました?」


「もう少し見ないといけません。読めるところから整理してみます。」


そして付け加えた。


「私がよくわからない表現は、ほかの方にも一度確認してみます。」


「お願いします。」


「はい。」


南宮さんはもう一度、資料の確認に必要なことをいくつか聞いてから席を立った。


「では、キム・ハルさん、連絡先を教えてください。作業していて気になることがあったら、すぐ聞けますから。」


「はい。そうしましょう。」


僕は彼女に自分の連絡先を教えた。


そのとき、南宮さんがまた韓国語で僕に話しかけた。


「事情は聞きました。本当に興味深いですね。私も調査に参加させていただいて、ありがとうございます。この近くにいい韓国料理のお店を一軒知ってるんですけど、今度時間があったら一緒に行きませんか? 日本にいると韓国料理が食べたくなるときもあるじゃないですか。」


僕も韓国語で答えた。


「ありがとうございます。でも、こっちでもおいしいものをたくさん食べてますよ。機会があったら一緒に行きましょう。」


話を終えて顔を上げた。


美咲さんと綾乃さんが、僕たちのほうを見ていた。


美咲さんが尋ねた。


「何の話だったんですか?」


「南宮さんが知ってる韓国料理のお店があるっていう話です。」


「そうなんですね。」


綾乃さんは何も言わなかった。


……どうしたんだろう?


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