第140話 何の話だったんですか?
翌朝。
僕たちは研究所で南宮熙さんを待っていた。
ふと綾乃さんが言った。
「そういえば、最初は南宮さんの名字を勘違いしてたんです。」
「どういうふうにですか?」
僕が尋ねると、綾乃さんが言った。
「学会で初めて会ったとき、名前が南宮熙って書いてあったんです。私は『南』が名字で、『宮熙』が名前だと思ってました。それまで会った韓国人は、みんな名字が漢字一文字だったので。」
「そう思ってもおかしくないですね。」
「あとで、南宮が名字だって聞きました。」
僕はうなずいた。
「韓国では南宮っていう名字は知られてるので、あまり間違えないかもしれませんけど、綾乃さんならそう思っても不思議じゃないですね。」
美咲さんが尋ねた。
「韓国にも、漢字二文字の名字ってあるんですか?」
「はい。多くはないですけど、あります。」
僕はノートパソコンで少し検索してみた。
「南宮もありますし、皇甫、諸葛、鮮于、独孤みたいな名字もあります。」
「思ったよりいろいろあるんですね。」
「それから、少し変わった例もあります。」
検索結果をもう少し下へ送った。
「網切、荒木……。」
美咲さんが画面を見た。
「これも、もともと韓国の名字なんですか?」
「日本の名字の漢字を韓国式の漢字音で読んで、そのまま名字として使うようになった例だそうです。」
僕は荒木という名字をもう少し調べた。
「プロ野球選手にも、ファンモクという名字の人がいたみたいです。」
「本当ですか?」
「はい。漢字では荒木って書くんですけど、日本では『あらき』、韓国では『ファンモク』って読むんです。」
そのとき綾乃さんが自分のスマートフォンを確認した。
「研究所の前に着いたそうです。ちなみに、私より少し年下です。でも実際に会うと、もっと年下に見えますよ。」
しばらくして、一人の女性が研究所の中へ入ってきた。
綾乃さんの言ったとおり、実際の年齢よりかなり若く見えた。
綾乃さんが席を立った。
「南宮さん、お久しぶりです。」
「お久しぶりです。」
二人は久しぶりの再会を喜び、挨拶を交わした。
綾乃さんが僕たちを紹介した。
「こちらがキム・ハルさんで、こちらが美咲さんです。」
僕は席を立った。
「こんにちは。キム・ハルです。」
韓国語で挨拶した。
すると南宮さんも韓国語で返した。
「南宮熙です。よろしくお願いします。」
美咲さんとは日本語で挨拶を交わした。
南宮さんが美咲さんに尋ねた。
「美咲さんって呼んでもいいですか?」
「はい。そう呼んでください。」
南宮さんが僕たちに名刺を渡した。
韓国の地方にある国立大学の国語国文学科に所属していて、今は日本の大学に客員研究員として滞在していた。
「今は研究交流で日本に来ています。」
「そうなんですね。」
南宮さんは持ってきた紙袋をテーブルの上に置いた。
「来る途中で買ってきたんですけど、どうぞ。」
中にはお菓子の箱が入っていた。
美咲さんが箱を見て言った。
「にしき堂の生もみじですね。」
僕は初めて見るものだったので、そういうお菓子なんだと思った。
「ただ、もともとの専門は中世韓国語なんです。こういう近現代の個人資料は、私の専門そのものではないんです。」
「じゃあ、確認するのは難しいですか?」
「とりあえず、私が見られるところまでは見てみます。わからないところは、その分野に詳しい方に聞けばいいですし。」
綾乃さんが言った。
「じゃあ、上に行って一度確認してみましょう。」
南宮さんがうなずいた。
「私が先に上で確認してから、気になることを質問してもいいですか?」
「はい。そうしてください。」
「じゃあ、お二人は少し待ちながら、お菓子でも食べててください。」
綾乃さんと南宮さんが上の階へ行き、僕と美咲さんは一階に残った。
「食べてみますか?」
僕はお菓子の箱を開けた。
中には紅葉の葉の形をしたお菓子がいくつも入っていた。
見た目は饅頭に似ていたが、一口食べてみると思ったよりもちもちしていた。
「おいしいですね。」
少し時間が経つと、美咲さんが上の階を見た。
「思ったより時間かかってますね。」
僕はもう一つお菓子を取った。
日本に来て、本当にいろいろなお菓子を食べていた。
そのとき、階段から足音が聞こえた。
綾乃さんと南宮さんが下りてきた。
南宮さんは席に着くとすぐ、僕に尋ねた。
「ハルさん、お祖母さんの故郷がどこだったかはご存じですか?」
僕はすぐには答えられなかった。
「正確にはわかりません。」
考えてみれば、祖母と釜山で会ったという記録はあったが、だからといって故郷まで釜山だとは言えなかった。
当時の釜山には、韓国各地から人が集まっていた。
南宮さんがもう一度尋ねた。
「生まれた場所とか、子供のころに暮らしていたところもわかりませんか?」
「はい。それは母に聞いてみないとわからないと思います。」
「できれば一度確認してみてください。どの地域で暮らしていたのかわかれば、表現を確認する手がかりになるかもしれません。」
僕は少し考えてから言った。
「よければ、母と直接話してもらってもいいですよ。」
「いいんですか?」
「僕から先に母に話しておきます。大丈夫だと言ったら、連絡先も送ります。」
「そのほうがいいですね。」
「判読するのはかなり難しいですか?」
南宮さんが少し考えてから答えた。
「かなり崩した字で書かれていますし、地域語らしい表現もけっこう混じっているようです。紙の状態もよくないので、今のままだと読みづらいところもかなりあります。」
「そうなんですね。」
南宮さんが綾乃さんを見た。
「研究所で修復してもらえれば、私がもう一度確認してみます。綾乃さん、できますよね?」
「はい。問題ないです。」
僕が尋ねた。
「じゃあ、どんな資料なのかはわかったんですか?」
「はい。手紙を出す前に書いておいた草稿みたいです。」
「手紙の草稿ですか? 途中まで書いてやめた手紙ってことですか?」
「その可能性もあります。書いている途中で気が変わって出さなかったのか、最初から下書きとして書いておいたのかは、まだわかりません。」
僕は少し考えた。
日本にいる弟たちへ送ろうとして、途中まで書いた手紙だったのだろうか。
「内容はどこまでわかりました?」
「もう少し見ないといけません。読めるところから整理してみます。」
そして付け加えた。
「私がよくわからない表現は、ほかの方にも一度確認してみます。」
「お願いします。」
「はい。」
南宮さんはもう一度、資料の確認に必要なことをいくつか聞いてから席を立った。
「では、キム・ハルさん、連絡先を教えてください。作業していて気になることがあったら、すぐ聞けますから。」
「はい。そうしましょう。」
僕は彼女に自分の連絡先を教えた。
そのとき、南宮さんがまた韓国語で僕に話しかけた。
「事情は聞きました。本当に興味深いですね。私も調査に参加させていただいて、ありがとうございます。この近くにいい韓国料理のお店を一軒知ってるんですけど、今度時間があったら一緒に行きませんか? 日本にいると韓国料理が食べたくなるときもあるじゃないですか。」
僕も韓国語で答えた。
「ありがとうございます。でも、こっちでもおいしいものをたくさん食べてますよ。機会があったら一緒に行きましょう。」
話を終えて顔を上げた。
美咲さんと綾乃さんが、僕たちのほうを見ていた。
美咲さんが尋ねた。
「何の話だったんですか?」
「南宮さんが知ってる韓国料理のお店があるっていう話です。」
「そうなんですね。」
綾乃さんは何も言わなかった。
……どうしたんだろう?




