第137話 ……見ましたよね?
資料を確認しているうちに、いつの間にか夕食の時間になっていた。
美咲さんが先に席を立った。
「お昼は辛いものを食べたから、夜は少し甘いものにしましょう。」
すると綾乃さんが少し考えてから言った。
「すき焼きはどうですか?」
僕は少し考えてから言った。
「すき焼きって何ですか?」
二人が僕を見た。
美咲さんが尋ねた。
「すき焼きって、初めて聞きました?」
「はい。」
「薄切りの牛肉と野菜を甘辛く煮て、生卵につけて食べる料理です。」
綾乃さんが付け加えた。
「関東と関西では作り方が少し違うんです。関東は割り下で煮ることが多くて、関西は先に肉を焼いて、砂糖と醤油で味をつけます。私がよく行く店は関西風です。」
「じゃあ、それにしましょう。」
外へ出る準備をしながら、綾乃さんに尋ねた。
「車で行くんですか?」
「歩いて行けるところに専門店があります。」
僕たちは研究所を出て歩いた。
しばらくして、綾乃さんが足を止めた。
「ここです。」
大きな看板が見えた。
中へ入ると、夕食の時間だからか、すでにかなり客がいた。
席へ案内されながら周囲を見ると、男女二人で来ている客がやけに多かった。
僕は一瞬、僕たち三人のことを考えた。
女二人に男一人。
なんとなく少し気になった。
でも、美咲さんと綾乃さんはまったく気にしていないようだった。
二人で何か楽しそうに話していた。
ちらっと聞こえたところでは、「辛かったです」「そうでしょう?」「本当に辛かったです」と、まだそんな話をしていた。
席に着くと、しばらくして鍋と一緒に薄切りの牛肉と野菜が運ばれ、そのあと長ねぎや豆腐、きのこも出てきた。
僕は料理する様子を見ていた。
店員が鍋に牛脂を溶かしてから、肉を何枚か先に入れた。
しばらくして肉に火が通り始めると、砂糖と醤油が加えられた。
すると醤油の香りと、肉が焼ける匂いが一緒に立ち上った。
「さっき言ってた関西風って、これですか?」
「はい。」
続いて美咲さんと綾乃さんは、小さな器に生卵を溶いた。
僕も二人の真似をした。
生卵に肉をつけて食べるというのは、まだ少し馴染みがなかった。
よく火の通った肉を取り、卵に軽くつけてから口に入れた。
甘辛い醤油の味が染みた肉に卵が絡むと、思ったよりよく合った。
「おいしいですね。」
美咲さんが笑った。
「でしょう?」
「生卵につけて食べるのは、ちょっと変な感じがするかなと思ってましたけど、いいですね。」
綾乃さんが言った。
「お肉ばかり食べないで、これも食べてください。」
綾乃さんが長ねぎを指した。
いつの間にか長ねぎや豆腐にも味がしっかり染みていた。
僕は豆腐を一つ取って食べた。
「これもいいですね。」
「ハルさん、日本に来てから食べ物の話ばかり増えてる気がします。」
「そんな気がします。」
そのとき綾乃さんが言った。
「研究もたくさんしてますよ。」
「そうですね。食べる研究ですけど。」
綾乃さんが笑った。
僕たちはしばらく料理を食べながら話をした。
「食べてたら、韓国で食べてたしゃぶしゃぶを思い出しました。」
美咲さんが尋ねた。
「韓国でも、しゃぶしゃぶはよく食べるんですか?」
「はい。よく食べます。」
「日本で食べるのと似てます?」
「似てます。薄切りの肉と野菜をだしで火を通して食べるところは、ほとんど同じです。ただ、店によってだしやタレが少しずつ違います。」
「そうなんですね。」
肉と野菜をほとんど食べ終わると、残った汁にうどんを入れた。
麺が煮えるのを待ってから、一口分を取った。
肉と野菜の味が染みた汁が、麺にも染み込んでいた。
「こうやって締めるんですか?」
「必ずそうするって決まってるわけじゃないですけど、おいしいじゃないですか。」
美咲さんが言った。
僕はまたうどんを食べた。
「おいしいですね。」
今回もまた、新しい料理を一つ知った。
食事を終えて店を出たころには、外はすっかり暗くなっていた。
僕たちはまた研究所のほうへ歩いた。
そのとき、美咲さんがコンビニの前で足を止めた。
「私、ちょっと寄ってから行きます。」
「何か買うんですか?」
「公共料金の支払いがあるので。先に行っててください。すぐ追いつきます。」
美咲さんがコンビニの中へ入った。
僕と綾乃さんは外で少し待ってから、ゆっくり先へ歩いた。
そのとき綾乃さんが僕に言った。
「でも、考えてみるとハルさんも本当にすごいですね。」
「僕がですか?」
「ハルさんが生まれてこない可能性って、何度もあったじゃないですか。」
「考えてみればそうですね。」
「だから、今こうしてここにいるのって、けっこうすごいことなんですよ。」
綾乃さんが笑いながら、僕の腕を軽くつかんだ。
そのときだった。
向かいから歩いてきた人が僕たちを見て、少し歩みを緩めた。
綾乃さんの車を運転している運転手だった。
綾乃さんも彼に気づいたようだった。
「お嬢様。」
運転手が挨拶した。
綾乃さんが一瞬、足を止めた。
「あ、こんばんは。」
僕も頭を下げた。
「こんばんは。」
運転手は僕にも軽く挨拶して、そのまま通り過ぎた。
しばらく何も言わなかった。
綾乃さんは、いつの間にか僕の腕から手を離していた。
僕たちは通り過ぎていく運転手の後ろ姿を少し見ていた。
綾乃さんが小さな声で言った。
「……見ましたよね?」
「……たぶん。」
また沈黙が流れた。
少しして、コンビニから美咲さんが出てきた。
僕たちのほうへ歩いてきながら尋ねた。
「どうしたんですか?」
綾乃さんがすぐに首を振った。
「何でもないです。」
「そうですか?」
「早く戻りましょう。続き、確認しないと。」
綾乃さんが先に研究所のほうへ歩き出した。
僕と美咲さんも、そのあとをついていった。




